以前、気になっていた人が、
「目に映るものを言葉に置き換えるのは楽しいと思う」
と言っていた。
かっこいいなと思った。

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その人はカメラマンで、色んな所へ飛び回っていた。私の知らない美味しい店や面白い事をたくさん知っていて、たまに時間が合えば、ドライブに連れ出してくれる。その時に流れるレイ・ハラカミの音楽が心地良かった。

そして私は、その人の書く文章が好きだった。
文章の端々に、その人らしさというか、書く時の癖が見え隠れしている。
それがまた独特の言い回しで、ちょっとした事なのに面白くて。

写真も文章も秀逸で、多彩で、憧れていた。
加えてその人の仕事柄、それらの写真や文章を紙面で見かける事もしばしば。
伝達する相手が確実にいるその状況が、私にとってはとても羨ましく思えた。

私は美大を卒業後、地元企業に就職して、平々凡々に淡々と暮らしている。
絵を描いたりなどという創作活動とは疎遠になってしまったが、昔から日記や文章を書く事は細々と続けていた。

「目に映るものを言葉に置き換えるのは楽しいと思う」
あの人がそう言っているのを聞いて、
「ああそうなんだ、ほんとその通りだな」
と共感してみたり、真似事をしてみたりした。

あの人とよく会っていた当時は、あの人の感性が、視点が、思考が、私にとっては何よりの刺激で、絶対的だった。
その時の私は、入社して間もなくだったので、環境がガラリと変わり、色んな不安要素があったのだと思う。
五感やインスピレーションを満たしてくれるあの人に、入れ込み過ぎていた。

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私はあの人に憧憬を抱く一方で、嫉妬とか劣等感とか焦りとか、自分の自信のなさや至らなさからくる負の感情も多く併せ持っていた。
あの人と過ごす時間は本当に楽しくて、あの人の事をもっと知りたいと思っていたし、今思えば恋心なんかもちょっとあったかもしれない。
けれど、あの人に会えば会うほど、負の感情は大きくなっていき、堪らなくなった私は連絡する事さえもやめてしまった。
自分を貫いて自由に生きるあの人といると、私は自分を保てなかった。

「目に映るものを言葉に置き換えるのは楽しいと思う」

頭の中で、あの人の言葉が繰り返される。
私もそうだと思っていた。
私もそうだと思いたかった。
けれど、なんか違うよな。
いや、絶対違うよな。

私はなんで文章を書いているのだろうと、考えていた。

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あの人と距離を置いて暫くすると、自分の事がよく見えるようになった。
私が今思っていること、感じていること、見たこと、聞いたこと、経験したこと。
文章に書いて、たくさんストックを持っておく。

大学4年の、卒業制作の題材に悩んでいた頃、友人達と夕暮れの海岸を歩いたというしょうもない日記を見つけて、青春の1ページでも描いてやるかと風景画が完成した。
失恋した時に書いたみっともない文章を元に、漫画を描いて、無事あの恋愛を成仏させる事もできた。

何を描けばいいのか分からず、崖っぷちピンチの時、『本棚』を漁ると脱出のヒントがそこにある。
私にとって文章を書くということは、絵を描くための参考文献がたくさん詰まった、私だけの『本棚』を作る事だった。

社会人になって、絵を描かなくなって、作品を発表する場もなくなった。
ずっとそれが楽しくて生きてきたのに、冴えないこの毎日を思うと少し虚しくなる。
社会人になった今でも、私が文章を書く事をやめないのは、絵が描きたいからなんだと気付いた。

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誰かに読んでもらおうとか誰かに伝えようとか、あの人みたいにできたらかっこいいなと思うけれど、何よりも私は、私のために文章を書き続けたい。
この『本棚』さえあれば、いつだって、また絵が描けると思う。

たまに『本棚』を整理していると、昔大切にしていた事とか、忘れてしまっていた感情とか、再会がたくさんあって嬉しい。
人間ってすぐに忘れてしまうから。
私は文章を書く事で、私を救ってあげたいなと思う。

先日、久しぶりにあの人の文章を紙面で見かけた。
抜群の構成力と、相変わらず癖強めな言葉選びが面白い。
連絡を絶ってしまった事をほんの少し後悔したけれど、でもまあこれはこれで良いネタになるかと、私はこの文章を書いてみたのだった。