ついこの前まで子どもだと思っていた私ですが、先日ついに20歳の誕生日を迎えました。
そろそろ家族に依存しない、私としてのキャリアを構築していかないといけないと感じています。そんな私の、最近一人で考えている密かな話題は将来「幸せ」に暮らしたい。
では「幸せ」でいるとはどのようなことなのかということです。

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私は将来幸せに暮らしたいと考えます。一見当たり前の言葉のように見えますが、幸せの定義は個々人によって全く異なるため、私はその幸せについて定義付けするところから始めています。

ずっと「幸せ」で居続けることはとても難しいことだと思います。私の環境を客観的に見れば、私は幸せであると感じます。
もし100年前に生まれていれば私は戦禍の中、飢えと死が隣り合わせの生活をしていたでしょうから、毎日、生きることに精一杯の生活を送っていたでしょう。

もし、発展途上国に生まれていれば十分な教育を受けることが出来ず、やるせない毎日を送っていたことでしょう。私は恵まれていると感じます。
しかしながら、私自身自分の人生が幸せであるとそこまでは感じていません。周りと客観視して、ここまで恵まれているのに、なぜこのように感じてしまうのか、そしてこの事が幸せを定義付けするための気がかりになると思い、模索する毎日を過ごしています。

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私は「幸せ」とは、他者と比較して、他者より恵まれていたら幸せである、という風に勘違いしていたことに気が付きました。それは、夏に旅行で訪れたカンボジアでの出来事がきっかけです。

カンボジアの子どもたちと触れ合う機会がありました。カンボジアはアジアの中でもまだまだ発展途上国で、学校に通えない子ども、戦争の跡が少なからず残っており、日本と比べると、恵まれた環境とは言えないかも知れません。
しかし、そこにいたカンボジアの子どもたちは目をキラキラさせていて、毎日が幸せであると、将来の夢を語りながら揚揚と話してくれました。

そこで私には気がついたことがあります。幸せとは相対評価ではなく、絶対評価であるのだということです。そして、自分の中で、どれだけ生きることに喜びを持ち、目標をもっているか。このことこそが幸せであるのだと感じました。

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そして私が漠然と抱いていた不安や、不幸せ感は、将来の見通しが立てられていないため、漠然とした不安が払拭しきれていないためなのである、と気がつくことが出来ました。
相対的に見たら恵まれているかもしれないが、私は将来幸せになりたいといった漠然とした思いがあるだけで漠然と、何をしたいどのような生き方がしたい、が明確化されていないため、生きるための目標が定められず、恵まれているのに対し、「幸せ」ではないと感じてしまっていたのかなと感じます。

さて、この先本当に私が幸せに生きるための道筋をカンボジアの子どもたちからもらうことが出来ました。私もひたむきに夢を見続け、夢を追い、努力をすることで、充実感に包まれた日々を送りたいと考えます。そのような毎日を送ることを「幸せ」と呼ぶのではないでしょうか。

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私は、自分のしたいことがまだ見つかっていません。それを見つけるために一年間休学し、海外に渡航することを決めました。広い視野をもって自分のできることややりたいことを見いだせるようになることが目的です。

今、その目的を達成できるようになるために行動していることにとても充実感と幸せ、高揚感を感じています。私の考えは間違えていなかったのだなと感じました。このまま、死ぬまで、「幸せ」で居続ける事ができるよう、私は努力し挑戦していきたいです。