2017年、海外で修士課程を終えた私は学費を貯めるために、東京の会社に就職した。
初めて社会人になった私は26歳になっていた。
仕事柄、たくさんの企業人と関わった。
シンポジウムや社会人塾の運営が主な業務で、大手企業の若手から取締役まで、資本主義の渦のど真ん中を生きる人々が私の「ゲスト」となった。
私には直属の上司がいて、美人のキャリアウーマンだった。
私は彼女の下で社会人塾の担当になった。
塾は10人以上の参加者を選出し、毎月いろいろな勉強会やイベントを開催するというもの
だった。
◎ ◎
業務のひとつに、郊外のコテージに宿泊して学ぶ合宿のようなイベントが組まれていた。
もちろん私は塾生の方々とその上司とともに同行した。
初めての「出張」は少しワクワクするものでもあった。仕事は嫌だし、上司は私にやさしくはなかったけれど、久々においしい空気が吸えることが楽しみでもあった。
塾生は男性が圧倒的に多いものの女性も数名いて、みんな優しそうだった。
私よりは年上の方ばかりだったため、「若い」ということのみが私の特徴となっていたことは否めないが、いい人たちばかりのように見えた。
ただ、1日目の夜。
上司と私も招待されて、ある塾生のコテージでみんなで飲むことになった。
ワイングラスに赤ワインを入れてもらった私は嬉しくなり、音楽を流していた塾生のそばでおしゃべりを楽しんでいた。その時、手を動かした拍子にワインをすっかりひっくり返してしまい、私の履いていたスカートがワインまみれになってしまった。
あわてて洗面所に駆け込んだもののどうしようもなく、コテージに備え付けてあったバスローブを借りることになった。
◎ ◎
今31歳になった私だったら、きっとそこで自分の部屋に引き返してしまったことだろう。
ただ、上司もそこにとどまるようだったし、楽しそうな雰囲気にとどまりたい気持ちもあったのか、バスローブのまま飲み会に残ることにした。
気を取り直して一人がけの椅子に座り、ワインを飲んでいると、すっかり酔った塾生の男性の一人が隣の椅子に座っておしゃべりに来た。
面白そうな人で、面接では将来は政治家になりたいと話していたため、真面目な印象を持っていた。
少しおしゃべりをすると、隣の椅子から手を伸ばし、バスローブ姿の私のお尻に手をあててきた。ワイングラスを手に持っていたことと、ショックが大きかったことで、数秒そのまま固まってしまった。するとその手はバスローブの上から私の下着をさがし、少しずつ下げようとした。
◎ ◎
ぞっとした。
すぐにその手をつかんだが、今度はしっかりと手をつながれてしまった。
別の塾生の男性に助けを求めると「〇〇さん駄目だよ」と手をどけてくれたが、今度は私に向けて「彼は酔うと変態になるからね」と笑いながら補足をした。
だから何だっていうんだ。憤りを感じた。
なのに、私はその場所にとどまりつづけた。
何度も繰り返すが、今の私なら絶対に残らない。
すぐに部屋に引き返すか、下手したらそのハラスメント野郎に𠮟責しただろうと思う。
しかし当時はその自信がなかった。
上司が残り続けるのに、先に部屋に戻ることなどできなかった。
その日は私の尻を触った男性からなるべく遠ざかるようにして飲み会を終えた。
今度は帰りのバスの中が問題だった。
私はもちろん1人で座っていたが、暇を持て余した塾生の一人が、私の隣に移動してきた。感じよく話したが、途中から話題が「下ネタ」になった。
私は下ネタが好きではないし、もちろんそれを続けたい気持ちはなかった。ただ、始まった話題を切る方法を当時は知らなかったし、もてなす立場の私には彼らに「感じよく接する」以外の選択肢があるとも思っていなかった。
私は本当に無知だった。
◎ ◎
無事にバスが到着し、解散した後、私は上司に呼び止められた。
「バスで下ネタはないよ。偉い人も同席してるのに。言っておくけど、あなたの評価がわるくなるんだからね」と怒られてしまった。
誤解だった。下ネタは私としても不本意だった。
合宿も終わり、しばらく経った時、職場でまた上司に呼び出された。
少し怒ったような、困ったような表情で彼女は私にこう言った。
「〇〇さんに合宿のとき、お尻触られてたの知ってるよ」
私は少し喜びかけた。ああよかった、見ていてくれたんだ!そう思った。
でも彼女はこう続けた。
「あなたがフレンドリーにしすぎたせいで、そういうことを招いていると思うよ」
「そもそも合宿の時のスカートも少し短すぎたし、塾生との距離も近づきすぎるでしょ。悪いけど、自分で招いているようにみえるよ」
◎ ◎
二度目のショックだった。何も言い返せなかった。ヘラヘラ笑って、そんなつもりはないんですと言い訳をしながら、すみませんでしたと謝罪した。
悔しかった。
私のスカートは膝少し上の丈だった。私は話しかけられれば談笑した。
からかわれれば笑って応じた。できるだけ感じよくなるように、それが業務の一部だと思って「仕事」をしていたつもりだった。
今31歳の私が、26歳の私に代わって主張したいことがある。
たとえ彼女のスカートが短くても、
ワインをこぼしてバスローブを着ていても、
あなたに対して感じが良くても、
あなたに笑顔をむけても、
下ネタに付き合っても、
彼女の身体はあなたのものにはならない。
同意なしに触っていいということには絶対にならない。
同意なしに触ったら罰せられるのは触った人物でなければならない。
常に片方だけが責められるのは、終わりにしなきゃいけない。
◎ ◎
私はこのことを家族以外には話さなかった。
でも、本当は私には声を挙げる権利があったのだと今ははっきりとわかる。
今でも日本社会にはこういった類のハラスメントがあり、そして被害者を責める上司が大量に居るのだろう。
その後また学術の世界に戻った私は、大学の教員として少なくとも自分の身を自分で守ることができている。
それでも時々、あの手の感覚を思い出すことがある。
あの気持ち悪い感覚と、そのあとに受けたショックと向き合うために、こうしてことの顛末を記してみた。
そして同じ経験をしたことのある方に、この文章を書くことで少しだけ寄り添えればうれしいと思っている。