私が社会を変えるなら、年齢や国境、職業に関係なく、自由な服装や身なりができる社会を作りたい。

私たちは常に国境とその国内にある暗黙の了解の上を歩いている。CAや販売員に対するハイヒール規定や、全ての大人の女性に課された化粧をしなくてはならないルールは有名だが、それ以前に、私たちは年齢と国境の上を歩いて生きている。
大の大人や役人がフリルの付いた服装で歩いたら、白い目で見られてしまうのは想像できるが、サリーやチャイナドレスで出歩いたらどうだろうか。顔を布で覆っていたらどうだろうか。アフリカの人のように、上をぎっしりと三つ編みのように編み込んでいたらどうだろうか。
私たちの社会は、無限大に見えるファッションツールに大きな制約を敷いた、ブラック校則の下に成り立っているように思える。

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そして、そのブラック校則とは、全ての者に同じベクトルを向けているのではなく、ある者に対しては華美な制約を、そしてある者に対しては地味な制約を強いているのである。
これに関しては以前、対極する形で2つのエッセイ(ロリータ役人の私は訴える。オフィスの服装規定を緩めて経済発展を」「女性に見栄えのする靴を求める社会。私の足からも出血していた」)を投稿した。

例えば結婚式やお葬式のような、相手のいる式典にドレスコードがあるのは良いだろう。
白は花嫁の特権であり、お葬式は黒と薄いストッキングが主流である。例えば参列者が白いワンピースを着たり、お葬式に華美な服装で参列したら、その式が複数人で成り立っていることを考えると非常識である。
一方、プライベートで着る普段着や通勤服はどうだろうか。サラリーマン風、OL風という言葉があるが、それは同調圧力の中で生まれた一しきたりに過ぎないのではないだろうか。
派手な服装がしたいのにできない、髪を染めたいのにできない。そんな気持ちに陥っている社会人はごまんといるだろう。

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また、髪の施術や服装は自由が広がるほど出費が増えることから、経済発展にもつながってくる。一方、現在身につけているものが本意でないならば、それは無駄な出費ではなかろうか。
暗黙の了解など作らず、皆が好きな服装をして個性を表出し、見せ合う。個性の見せ合いは学び合いでもあることから、経済発展につながる。そんな社会になっていけばいいと考えている。一方、華美な服装の押しつけも前者と同様に個性を生かさない手段である。これらを撤廃し、皆が個性が輝く社会を作っていきたい。


グローバル化が叫ばれて久しい今日、実はそれが最も進んでいないのは、一部の宗教を除くと、日本におけるファッションではなかろうか。
日本のロリータ文化が海外から逆輸入されている話は有名だが、それはあくまで日本から海外への話であり、日本人が日本で海外のファッションを着る姿を私は見たことはない。そして、それを最も阻害しているのは、日本の中に暗黙の了解として根付いているファッションの社会的制約ではないだろうか。

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外国人が普段着のように原宿系のファッションを着こなす姿は見られるが、派手な服装をする者に視点を当てるとコスプレイヤーを除いて大半が外国人である。しかし、部屋着売り場を見るとカラフルなものがあることや、人気の高いロリータブランドがあることから察するに、日本人が決して派手な服装を嫌っているわけではないだろう。

日本人が地味な服装をするのは、社会に敷かれた暗黙のルールによるものなのだ。例えば私が発言力のある政治家なら、国会全体を私服にして、各会社にも服装の自由化を呼びかける。もちろん、一番好きな服装がスーツだというのならそれでもかまわないが、私はロリータファッションで国会に出席し、報道陣の質問にも答えてみせる。
「あなたたちは、どんな服装が好きなの」
そんなことを部下に呼びかけてみる。

日本の経済発展と日本人の最大の自己表現を祈って。