「好きな〇〇は何ですか」という質問は、相手を知るために最初に投げかけられがちな質問だ。
私が好きなことは何ですかと問われたら、「読書」は好きなことの項目に入っていたし、好きな場所はどこかと問われれば「本屋」と答えていた気がする。
あなたに聞いてみたい。「好き」と「仕事」は繋がっていますか
「お仕事は何をされているんですか?」
「図書館関係の仕事をしています」
「素敵ですね、好きなことをお仕事に活かせているなんて」
「本当にそう思いますか。私の仕事は……」
喉元まで出かかった本音を心臓より下に押し戻すような想像をしながら飲み込んで、そうですねと曖昧に笑った。
図書館の仕事というと、聞こえとしては静かで知的で、確かに魅力的だと思う。しかし、それは利用者に見せている姿であって、私の仕事はその空間を支えるバックヤードにある。そしてそこは図書館ではない。
「仕事をやめたい」
「あの人と働きたくない」
「会社は親身になってくれない」
今日も来た。まただ。定期的に来る。ひずみにはまって押しつぶされていく感覚。想像上のはずなのに呼吸がしづらい。上司が言った通りの対応をすることが今後の私にとって一番ダメージが少ないけれど、目の前で涙するこの従業員にとって指示通りの対応はおそらく不正解だ。
この仕事に就いてから、働く空間に好きだったはずの本が並んでいることを忘れてしまう。不満を漏らす従業員を見るたびに彼らの履歴書を見た。
誰もが書いていた、「本が好き」「本に携わる仕事がしたい」という言葉。その「好き」とあなたたちの仕事は本当に繋がっていますか、自分の立場を無視してそう聞いてみたかった。
「仕事」は「私」自身ではない、けれどいつの間にか「私」の一部分に
ある時、いつも通り退職したい旨の連絡を受け、いつも通りの手順で面談を行う約束をした。
その時期はそういった話が相次いでいてもう何も感じなくなっていた。また募集広告を準備しなければと、ただそれだけでしかない。
退職理由を一通り話した後、彼女は話の最後に「この仕事が好きです」と言った。その言葉を耳にしたとき、鼓膜をざらっとかすめるような、体にしみこまない何かを感じ、私はもうその言葉を素直に受け入れられないことを知った。
でも、一つ救いだったことがある。それは、少なくとも彼女のその言葉には嘘がないように感じたことだ。
聡明で理知的な彼女の人柄がそう感じさせてくれたのだと思う。この仕事を好きだと感じてくれていた人がいた。それだけでありがたかった。感じてくれていた、だなんてまるで自分自身がこの仕事そのものみたいな言い方だけれど、目の前で怒りや悲しみを向けられるたび、そのような思いをさせてごめんなさい、あなたの思っていたような仕事ではなくてごめんなさいと謝っていた。
そのたびに私が悪いのだと、無意識に思うようになっていたのかもしれない。
仕事は私自身ではない。しかし彼らにとって私は仕事そのものだ。だから、彼女の「好き」という言葉を聞いた時、安堵した。
「また機会があればぜひ」
その言葉を、相手の目を見て言えたのはいつぶりだろう。その日はスマホの画面より、窓の外を流れる景色を見て帰った。
好きを仕事にするために働く。あの言葉を一回でも多く聞けるように
今日も図書館へ行く。従業員の皆さんが笑顔でいることを祈りながらバックヤードへと向かい、いつも通り挨拶をして回った。
バックヤードを抜けカウンターの外へ出ると、そこには静かで知的な空間が広がっていた。書架の間からカウンターを眺めると、従業員は落ち着いた丁寧な言葉で利用者と対話している。
これが「図書館」だ。あのバックヤードは利用者の言う「図書館」ではない。
そして私の仕事はここにはない、と目の前の書架に並ぶ本の背を整えながら考える。
私はこの仕事が好きではない。むしろ嫌いだとさえ思う。一週間のうち五日働いているが、そのうち少なくとも三日は嫌いだと思っている。
しかし、矛盾しているようだけれど担当している従業員にはこの仕事を好きでいてほしい。そのためにできる範囲で環境を整え、新たな仕事を生み出し、図書館で働くことを好きでいてもらうようにする。
「好きを仕事に」。どこかで聞いたことのあるようなキャッチコピー。
担当する従業員が「好きを仕事に」するために私は働いている。きっとどの業界でも誰かのそれを叶えるために奔走している人たちがいるのだろう。
この仕事をいつまでもすることは考えていない。でも今はこれでいい。
ここにいる間、私が何人を支えられるかなんて全く分からないけれど、「この仕事が好き」という言葉を一回でも多く聞けるように、私は今日もまたバックヤードの扉を開ける。