「文章を書くということ」は文化的象徴であり、文化的体験を提供する。文章を書くということは読み書きができる人なら誰でもできることだ。すなわち様々な理由で、文化や社会経験について触れる機会を失っている子供たちも、文章を書き、読むことで文化的体験を得ることができる。
読み書きができるということは、その国の文化的水準を表しているともいう。日本国民のほとんどの人が読み書きができるというのは、実はもう珍しいことである。日本の初等教育就学率は男女ともに100%であることから、識字率も世界水準の上位であることが予想できる。

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私にとって「文章を書くこと」は親に褒められる機会だった。
昔から国語が得意で、小学生や中学生の時は作文が表彰されたりもした。親に作文の構成を教えてもらいながら書いた初めての作文は、学校で表彰され、誇らしい気持ちになったものだ。
本を読むことが好きで、星新一のショート・ショートを読みあさっていた。小学校、中学校と義務教育を終えてからは、もっぱら文章を書く機会がなくなった。高校では、インターネットリテラシーが求められる世の中になったからかWordやPowerPointの使い方を教えられ、直接紙に文章を書く機会はなかったように思う。文章を書く機会といえば大学受験用の小論文対策のみで、文章を書く力はこの時徐々に衰えていったのかもしれない。
今思えば、薄い紙でできた作文用紙に鉛筆で字を書き、書いては消しを繰り返し真っ黒になった手を見るのは楽しかったなと思う。当時は全く気づかず、面倒臭いとまで思っていたが。

大学生になってからは、レポートが課題として出されることが多くなり、再び文章を書く機会が増えた。文章を書く感覚を必死に取り戻し、文献を参考にレポートを書く日々だ。
大学でレポートを課題に出されるのは学期末が多く、忙しいため、効率よく取り組むことを重視してしまっていて、レポートを書く、文章を書く楽しさというのはなくなってしまっている。本を読む機会もなくなり、小説のような文学的表現はできなくなった。

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時代の変化は目まぐるしく時には寂しい気持ちになるが、時代の変化を嘆くのは大人たちのエゴだと思う。
例えば、今の子供達は夕方テレビに集まって「サザエさん」を見るのではなく、スマートフォンやタブレットでYouTubeを見る。それは嘆かわしいことではなく当然の時代の変化であり、大人が自分たちの幼少期と比べて、YouTubeに夢中になる子供を馬鹿にするのは、恥ずべきことである。同じように、今の子供達が文字を書かなくなったとしても、別の形で文章に触れるのならば、それは当然の時代の変化で、嘆くことではないのだ。

文章を書くことで、私は自分自身の気持ちと向き合い、自信を持つことができた。文章への向き合い方がこの先変わってゆくとしても、その自信は揺らぐことはない。今の子供達には違った形でも自分と向き合い、自信を持つ経験をしてほしいと願う。