感染症の存在が知られる半年ほど前、私は職場でマスクを付け始めていた。
もちろん、ウイルスの蔓延を予知していたとか、そういうことではない。職場の方々からはよく「風邪引いたの?」と聞かれ、そのたびに「予防です」と答えた。
マスクは風邪を予防するためのものではなく、他にうつさないためのものだが、もっともらしく聞こえる理由はそれ以外思いつかなかった。
本当の理由は、職場で顔を出すのがいたたまれなくなったから、である。
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当時、就職1年目。そんな右も左も分からない私を受け持ってくれた上司は10歳差もないくらい若い方で、しかし既に会社で評価を受けていたやり手だった。そのためか、私に教えるペースも速く、すぐに業績に関わる業務の一部を任せてくれた。
「責任は取るから挑戦してみろ」というタイプの人で、実際、盛大にミスをしたときもどうにかカバーしてくれた。定期的に1対1で話す時間を設け、今後の確認や意見交換もさせてくれた。
思い返すと、1年目のペーペーによくここまでしてくれたなと思う。当時の私としても本当にありがたかったし、任せてもらえることに喜びも感じていた部分もあった。しかしその一方で、徐々にプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのである。
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彼は、機嫌が良いときは陽気で目を細めて笑っているが、怒ったときの迫力は凄まじかった。数字に直結する話なのもあって、根拠の弱い・不足している部分を容赦なく理論で詰めてくる。その一方で、時には感情を爆発させて叱ることもあった。
どうやら彼は二刀流らしい、ということはおいといて、どちらにせよ迫力は申し分ない。そして私が超敏感なせいもあって、おそらく彼が想定しているよりも大きなダメージを受けてしまっていた。
次第に、気配を察知するだけで緊張するようになった。仕事中ながら、話しかけられないように姿を隠すこともあった。ちょっと叱られるだけで涙が出てくるようになり、「ピーピー泣いてんじゃねえよ」と言われたこともあった。
言い方があるだろとは思うものの、彼も私の扱いに困っていたのだろう。そりゃそうだ。急に姿が見えなくなったり、ちょっと言っただけで泣きだすんだもの。
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その結果、顔を丸出しにしておくのがいたたまれなくなった。叱られたくないけど、きっとまた叱られる。そういうときは身を隠したいが、それはできない。ならばせめてマスクでも……という流れ。
プライドが高いのだろう。しかしそうでもしないと、その場にいられない気がした。
よくよく思い返すと、「ピーピー」のときは既にマスクをしていた気もするし、完全にマスクをつけていた時期にガッツリ叱られて同じチームの人に「大丈夫?」と慰められたこともあった。
そのときはちょうど繁忙期だったのだが、上司が姿を消したあと、「ちょっと言葉キツイよね」などと彼女がフォローしてくれた瞬間、上司が再登場。彼女を業務のことで呼び、取り残された私は、コントみたいだな、と思って気を紛らわせたのだった。
しかし、マスクがなんの意味もなかったかというとそうではなく、1つバリアを張れているような感覚になれた。毎日職場につくとこっそりマスクを装着し、終わるとまたこっそり外す。当時は立体型をよく使用していたので、さながら西洋の兜のようだった。
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それからしばらくして、誰もが否応なしにマスクをつける状況になり、「風邪引いたの?」と聞かれることは皆無に等しくなった。マスクが品薄になるなか、つけ始めるのが早かったな……という思いがよぎったこともある。
しかし、あれはあれで、私にとっては必要な防具だったのだ。