「どうして喋れないの?」
会う人のほとんどから聞かれた言葉だ。だが、私にはその答えがわからなかった。「わからない」ということすら人に伝えることができなかった。
心に薄くもやがかかって一生取ることのできないような、そんな感じが常にしていた。

私が場面緘黙症と診断されたのは、小学二年生の時だった。
幼稚園の年中の時までは声を出せていた。人前で発表するような劇も、平気だった。それができなくなったのは年長の時だった。
どこの場面からだったのかは覚えていない。だが、年長の時の劇ではセリフがあったのに、全く声が出せなかった。しかし、元々大人しい性格だったし、あまり表沙汰になることはなかった。

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小学校に入っても、私は話せなかった。クラスの子に「大縄とドッジボール、どっちがいい?」と聞かれても、そんな単純な質問にすら答えられなかった。
小学二年生の時の授業参観。自分の書いた文が読めず、先生に読んでもらった。保護者の顔が曇り、隣の人と「何であの子は自分で発表しないの?」とコソコソ話をするのが聞こえてきた。その時は恥ずかしいというより、現実をすぐに忘れようとする気持ちの方が大きかった。

小学三年生の時、授業でカルタをした。その時担任が「はい」と言って取るようにルールを作った。私は何も言わずにカルタを取った。クラスの男子から大ブーイングが起こった。
女子は私の味方となってくれた。担任の先生は横に寄り添ってくれた。「ごめんね」と言ってくれたその一言が温かかった。

次の年の三月、担任の先生が異動になることがわかった。先生は最後に私を見つめ、「最後に声聞かせてくれる?」と言った。声を出してあげたいと思ったが、何も喋れなかった。先生は私の頭を撫でた。
それが最後の別れになった。

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その頃から友人との間であったら自然と喋れるようになった。最初は「うん」とかその程度だったが、言いたいことがあったらその時だけ喋れるようになった。友人が少しずつ増え始めた。

喋れるようになったのは、小学六年生の時だった。担任は明るく、「もう喋れてるんだから皆の前でも喋ればいいじゃん」と言った。確かにそうだった。私は仲の良い友人が増え、ほとんどの人と話せるようになっていた。
担任は皆の前で発表する場を設けた。相当なプレッシャーで、十五分ほどクラスメイトを待たせた覚えがある。
しかし、緊張はあまりしていなかった。授業時間が終わるギリギリに発表することができた。自分の声を担任が批評しているのが、なんだか不思議な感じがした。

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次の年、私は小学校を卒業し、私立の中学に入った。
そこからは場面緘黙は完全になくなった。元から「喋れる子」だったみたいに友人達と話した。人前で発表することも何の苦もなくできた。それは観客の人数が多くなろうと、どんな場面だとしても変わらなかった。
しかし、根っからのコンプレックスは消えなかった。

一番自分が負い目に感じるのは、友人と話している時だった。ふとした時に自分が「傍観者」になっているのを感じる。喋れないことで周りから気を遣われる「される側」だった過去を思い出す。

そのコンプレックスは今も消えてはいない。場面緘黙症だったことは人には伝えないようにしている。私は元から「普通」だったという仮面を被っている。それは私なりの、「気を遣われる側」からの脱出だった。間違っているかもしれないし、自分には負担となっているかもしれない。
だから、文章の中、ネットの中だけでも仮面を外そうと思った。今まで支えてくれた人々への感謝も込めて。
私は普通ではないかもしれないが、自分なりに自分の足で立っている。そんなことに気づいてくれると良いなと、ガタゴト揺れる憂鬱そうなサラリーマンだらけの箱の中で思いながら。