感染症対策のあらゆるものが、私にとって都合がよかった。
マスクは以前からしていたけれど、それを「変わっているね」と表現する人はいなくなったし、行きたくもない飲み会に誘われることもなくなった。
家にいる時間が増えると、自然な形でパソコンの前に座ることが多くなる。そうすれば、やっと私は本来の自分になることができた。
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学生時代から、「去る者は追わず来る者は拒まず」という姿勢でいたものだから、周りには常に人がいたように思う。だからと言って特別所属しているグループがあるわけでもなく、ふらふらと色んなところを渡り歩いて、廊下ですれ違うときに挨拶をする回数が少し人より多かったくらいだ。
自分としてはちょうどいい距離感だと思っていたのだが、まだ様々なことを考える余白がある学生は、私のことを「羨ましい」と表現したり「妬ましい」と表現したりすることもあった。
だからと言って、私は誰かを嫌いになれるほど親しい人もいなかった。今思えば、なんとなく人との距離に一定の線を引いていたのかもしれない。
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それは、学生時代から社会人でも続いた。新人歓迎会という名前で、様々なグループに呼ばれ、呼ばれたらひとまずついていき食事をした。歓迎会ムードが終わったかと思ったら、今度はお疲れ会という名の飲み会が行われるようになった。
正直にいうと、窮屈だった。人と話しているときの自分の声は、普段の声よりも1オクターブ高かっただろうし、喜びや驚きなど、人がプラスに感じる感情は大げさに表現していた。
それが嫌だというわけではない。好きでそのような自分でいて、相手にそういう人に見られたかったのは確かだ。
けれど、一人家に帰り、手洗いうがいをして、そのまま化粧を落として部屋着に着替えて部屋に入り、パソコンの電源をつける瞬間に「はぁ」と大き目な溜息をついてしまうくらいには、あの場面に窮屈さを感じていたのだろう。
パソコンをつけたら、お気に入りの音楽を流してぐるりと首を回す。肩をストンと落としたら、ようやっともう一つの自分が帰ってきたように思う。そして私はメモ帳を開いて徒然なるままに、言葉を紡いでいく。
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感染対策が進められるにつれて、家にいる時間が増えた。必然的にパソコンに向かう時間も増えたわけだが、こうやってエッセイを書いている瞬間に漠然と「私らしさ」を感じている。
何がどうというわけではない。ただ、大げさなリアクションをせず、少し低い声で呟き、そして思ったままを言葉にしている。ただ、それだけだ。
それだけなのだが、人前の自分とは違い、案外自分は静かにそして一人で生活することが好きだったのかと驚くことがある。
もちろん人前の自分が嘘だとは思わない。ただ、誰の評価も得ないたった一人の部屋は私をときに「私らしく」いさせてくれるのだと感じた。たぶんこの部屋があるから、私は外に出るときに自分が目指す自分になることができる。
どちらの私も嘘ではないのだけれど、どちらか1つだけでは私は成り立たない。そんなことに気付くことができたのが、感染対策期間だったことは少しだけ悔しいのだけれど。この気づきを、大切にしたいとは思う。