中学3年生の春、私はひっそりと恋に落ちた。

前触れもなかったし、恋がどんなものかなんて知りもしなかった。なのに、どうしてかとくんと胸が鳴って、これが恋なのだということが否が応でも思い知らされた。

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彼はよく眠った。学力別の数学の授業中、毎回先生に注意をされていた。
一番前に座る私に対し、ホームクラスも違う彼が座るのは一番後ろの席。振り返って好奇の目を向けるのも憚られた私にとって彼は、苗字しか知らない、居眠り癖のある不真面目な生徒という不名誉なイメージの塊だった。

そんな彼と初めて話した時を私は忘れない。その時こそが、名前とイメージが実際の本人と結びついた瞬間であり、私が恋に落ちた瞬間だったから。

私は当時、優等生の型から外れることに怯えていた。周りに勝手につけられたイメージという名のしがらみに苦しむくせに、そこから外れる勇気はなかった。だから授業で分からないことがあっても同級生はおろか先生に聞くこともできなかった。先生からも「できる生徒」と思われていたし、勉強を教わっているところを他の誰かに見られでもしたら私のイメージは崩壊してしまうから。

だから、分からないことは必死で教科書とにらめっこしてなんとかやってきた。でも、中学3年生になって、どうしても分からない問題が出た。
テストも近かったため、勇気を出して同級生に聞くことにした。せめて違うクラスならと昼休みに馴染みのない教室に恐る恐る入り、数学が得意なことで知られている女の子に質問した。でも、私の勇気も虚しく、その子にも分からなかった。
諦めて自分の教室に戻ろうとしたところ、女の子が机に突っ伏している男の子の名前を呼んだ。

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それがあの居眠り君だった。初めて本人の姿を前にして、少しドキドキした。
どんな子だろう。居眠りあんなにするし、感じの悪い子だったらどうしよう。というか、あんなに寝てて授業内容大丈夫なのかな。

のっそりと上げた顔はいかにも眠そうで、目は赤くしょぼしょぼしていた。
「ああ、これね」
あくび混じりの声でそう言うと、角の折れたルーズリーフにいとも簡単に数式を並べてみせ、丁寧に解説してくれた。
睡眠妨害に気を悪くすることもなく、しかも私があんなに悩んでた問題をあっさり解いてしまった。居眠り君の好感度は一気に上がった。

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「また分からんかったら聞いて」
彼は最後に顔をあげ、優等生の私に当たり前のように言った。初めてしっかりと彼の目を見た。優しそうで、でも心の奥まで見透かされていそうな、今まで見たことのない目だった。
その瞬間、先ほどとは違う意味でトクリと胸が鳴った。

それまで恋などしたことのなかった私は、こんな些細なことで恋に落ちるわけがない、私に好きなんて気持ち分かるはずがないと、心に甘く広がろうとする何かを必死に止めようとした。
誰かを好きになることが怖かった。周りで浮ついた噂や男女のいざこざを聞いていたから、自分もただ傷つくだけだと恐れていた。あの真面目な優等生が色恋沙汰なんてと囃し立てられるのが怖かった。
でも、同時に、抑えようと必死になる時点で、自分が恋してしまったことは明らかなのだということを、私は何より自覚していた。

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なんの色眼鏡もない、澄んだ真っ直ぐな目で私を見る彼。彼はそれから度々私に話しかけてくれるようになった。
話す時間が長くなるにつれ私は、自分の直感が正しかったらしいということを苦しいほどに思い知らされることになる。同時にあんなに恐れていた周りの目が気にならなくなった。ただ、彼の目だけが気になって仕方がなかった。

恋というものはどうやら良くも悪くも人を容易く変えてしまう大きな力を持っているらしい。
彼を好きな気持ちに溺れたあの時は、楽しいばかりではなかったけれど、今となってはいい思い出だ。