人との付き合いは、家族であっても恋人であっても親友であっても腹8分目で付き合うことが大切である、という話は世間によく知られた話だ。
多くの人には、自分以外に決して踏み込まれたくない領域が存在する。そこに土足で入り込まれることで崩れていく人間関係もあるだろう。
自分だけの基準で相手のプライバシーに立ち入ることはエゴであり、想像力が欠損している行為のようにも感じる。

私は、共に仕事をする職場仲間が嫌いではないが、プライベートや仕事以外の時間までも繋がりを持ちたいとは思わないタイプの人間だ。
職場の人間は、たまたま同じ時期に同じ場所で仕事をすることになっただけの、人生の中の一時の関係に過ぎず、友達の延長から発生したような相方の芸人さんでもなければ、バンド仲間のようなエモい関係性ではない。
しかし、これはあくまで私個人の考えに過ぎず、人には人の数だけの考え方があるのだろうが、勝手ながら、私はそこにデリカシーのなさを感じずにはいられなかった。

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携帯電話がなかった時代を時に羨ましく思う。
現代では、携帯電話を1人1台は持っている事がほぼ当たり前で、居留守など通用しない。
仕事が休みであろうと、出先であろうと、会社の人間は遠慮なく連絡をくれるし、それに反応をしなければ"心配"という言葉を都合よく使い、いつまでも連絡をやめないだろう。

「今日居なかったけど、何かあったの?」
「明日は何時出勤?何時退勤?」
「次の休み、いつ?暇な日ある?」
……私は、息が詰まりそうになる。
いや、すでに体の半分は窒息死しているのかもしれない。
職場の人間からこんな言葉を喰らうと私は、彼女らの彼氏や息子になったのだろうか、と錯覚する。
そしてそれは、休憩時間にも容赦なく、私を苦痛にさせてくれるのだった。

人との会話を回避するために読書をすれば、「何の本を読んでるの?」。
食欲が湧かずに昼食を少なくすれば、「何食べてるの?それで足りるの?」。
作業をしていれば、「休憩中にまで仕事しちゃダメよー」。
……ありがた迷惑という名のお節介は、日々積み重ねられていくことで次第に私を憔悴させた。
学生時代のバイト先に居たパートのオバちゃんが「休憩場所が充実していない職場は伸びないのよね」と言っていたことを懐かしく思い出した。

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学生時代、連れションが大嫌いだった。
休み時間も大嫌いだった。
授業中にトイレに自由に行かせてくれさえすれば、休み時間など必要のないものだと思っていた。そもそも自由にトイレもいけない刑務所のような学校生活はストレス以外の何でもなかった。休み時間という無駄な時間を設けてくれるくらいなら一刻も早く帰りたかった。
そして、その思いは社会人になった今でも変わらない。

非効率的で無駄な時間が大嫌いだ。
私は仕事が終われば競歩選手の如く会社を出る。
会社の人間との話の内容はほぼ毎回同じことのループだ。それも、聞いていて楽しくもない悪口のループ。だから私は上手い具合に自嘲気味な笑いをとって、嘘をついて、その場を逃げ去る。

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職場の人間は好きには好きだが、それは次に言葉が浮かばない程度の適当レベルの好き、であり、例えるなら「味噌汁の豆腐嫌いですか?」とか「おでんのちくわ嫌いですか?」の問いに答える感じの「いや、まぁ、嫌い……ではないかな。好きですよ……」といったニュアンスだろうか。

私は、この"好き"をこれからも崩すことなく守っていきたい、と切に願う。
どうか、嫌いになってしまいませんように、と手を合わせる。
怨みや殺意が沸きませんように、と目を瞑る。