おそらく介護職の方の発言をどこかで見たのだと思う。認知症になると、『その人の本質』があらわになると。

確かに周りの人間からみると、認知症の人間は他に何も纏わず、『本質』だけで生きている状態かもしれない。怒りっぽいのか、朗らかなのか、心配性なのか。認知症になってからはひと目で周りにわかってしまうのだから。
20代そこそこだった私はその話を聞いてから、ひとつ、人生にかかわる大きな決心をした。

認知症になっても、朗らかに優しく笑っていられるおばあちゃんになりたい。

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もう少し具体的に、私の老後のイメージを話そう。
認知症なので、徘徊等の危険があり、家族と共に暮らすのは難しい。介護施設にお世話になり、身体も不自由な箇所があるかもしれない。介護職員に車椅子を押されながら、今日はちゃんとお薬飲んだか、なんて聞かれる。「なあんにも覚えてないけど、今日はいい天気で気持ちがいいわねえ〜」と言って笑いたい。介護職員が思わず笑った後に、「まったくしょうがないんだから」と言いながら服薬の確認をしてくれるような関係性を築きたいのだ。

それを実現するためには、覚えていなくてもどうにかなるという圧倒的な自信が必要だ。自信の裏付けになっているのは、人生の紆余曲折を生き抜いてきたという確固たる成功体験だろうか。
天気のよさに感動できる感性や、介護職員との関係性を築くための優しさや人間力も養っておかねばならない。
今29歳の私が認知症になるのが75歳くらいとして、45年でこれだけのものを身につける必要があるのだ。
感性を養うために本を読んだり美術館に行ったり、成功体験を得るためにまずどんな仕事なら成功できそうかという自己分析をして、実際に仕事で成果を出し、骨身に染みるまで優しさを身につけるには日頃からの行いに気をつけて……やることは山積みだ。1秒たりとも無駄になんてできない気がする。

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そして、列挙してきた項目を見て思う。目標を認知症後に設定すると、『人間力』とでもいうべき人の本質を磨いていくことになる。仕事での成功や人生の荒波を乗り切ることも、全てが人間力を磨くための手段に成り代わるのだ。
たぶんこういう話、ソクラテス辺りがしてたんじゃないかな。『善く生きる』なんて、高校の倫理学を最後に触れていなかった言葉が出てきそうな予感がする。ソクラテスの本も今度読んでみようか。

ただ、そんな話を大真面目にすると、大抵は笑われるのだ。「目標設定が高齢すぎる」「もっと若いうちに目標を持っておかないと、生活にハリがなくなる」など。
まあ言わんとしていることはわからなくもない。普通の20代は「自分が認知症になったら」なんて考えず、若い時代を精一杯謳歌するものだと私も思うから。
でもこんなにやることが明確化して、わくわくする目標が他にあるだろうか。
うんと先の未来、おばあちゃんの私を考えることは、すなわち自分の本質を磨くことに繋がるのだ。
全てを忘れて、それでも最後に残るものーー。そういうものを私は、今から磨いていきたいと思っている。