合計履修単位、179単位。大学学部の卒業単位だ。
人生のなかで最も勉学に打ち込んだのが、大学だった。
特に留学から帰国した後、ゼミに所属し、本格的に研究活動を始めた大学3~4年の時間は、ものすごく濃密だった。
4年間、月曜日から金曜日まで、毎日授業を受けていた。
全休ディズニーなんてできなかった。
ましてや、大学3年では、毎週金曜日、朝9時に始まる1限から夜の21時半に終わる6限まで履修していたから、夜、家に帰って寝る以外の、ほとんどの時間をキャンパスで過ごしていた。
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なぜこんなにもがむしゃらに、授業を受けて、勉強して、学問に取り組んでいたのかというと、私が、大学に入った理由が、「きちんと本気で勉強したい」「教員免許をとりたい」だったからだ。
「言語」に興味があった私は、「語学教育」や「外国語習得」、「フェミニズム言語学」といった分野を専攻するようになり、「英語の教員免許をとりたい」と思うようになった。
私が所属していた学科は英語学科ではなく、ある西洋言語に関する学科だったから、教員免許を取得するとなると、まずは所属学科の言語での教員免許課程を履修した上で、それに加えて、他学科履修という形で英語の教員免許課程を履修することになる。
「4年間で170単位近く履修して、交換留学も行って、教育実習にも行くのはかなりきついよ」と、大学の課程センターのおばちゃん職員に言われたけれど、私はやることにした。やってみせると。
同級生は留学や教職課程を理由にして、4割近くが5年間で大学を卒業する計画にしていたから、「5年間にすればいいじゃん」と言われることも多かったけれど、私はなぜか4年間で大学の学部を卒業することにこだわった。
124単位あれば、大学を卒業できるのに、ハードモードな大学生活を選んだ。
そして、中学校と高校の、2科目の教員免許を取得し、交換留学と4年間での卒業も諦めることなく、私は大学生活をやりきった。卒業式では、学科代表に選ばれて、ステージの上で学長から卒業証書をもらえた。
こんなにも熱意をもって、語学を極め、アルバイトでは塾講師や英会話講師など、「教える仕事」ばかりやってきたのに、私は、教員採用試験を受けなかった。
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日本で生まれ育ち、日本の学校教育を受けてきたけれど、英語の発音には自信があったし、中学で演劇をやっていたせいか、人前に出て「先生」という役を演じることが好きだった。
アルバイトで塾講師をしていた頃、生徒には「先生、塾の先生じゃなかったら、ディズニーランドのキャストさんになったほうがいいよ」と声を使う仕事への転職をオススメされるくらい、私の授業は明るく、笑顔に満ちた、楽しいものにしようといつも思っていた。
教職課程の履修科目には、模擬授業を行う実践的な授業もあり、辛口評価で有名だったある教授は、私の模擬授業が終わった後に「あなたには人を惹きつける力があるね。授業にきちんと生徒を巻き込む力が。天性の持ち主だよ」と言ってくれた。
本当に嬉しかった。
母校の高校で、3週間教育実習をしたとき、私が担当したクラスの生徒は、花束と色紙を用意してくれた。その時の教育実習生のなかで花束をもらえたのは私だけだった。私は生徒にとても愛されていたのだと思う。
校長先生や様々な先生方を招待して実習最終日に行う研究授業はとても緊張したし、高校時代の私の担任が、今私の授業を見ていると思うと感慨深かった。
校長先生は担当教科が英語で、実習最終日に校長室で講評を言ってくれたとき、「悔しいけれど、君は即戦力だね」とほめてくれた。
私の周りは、私が教員になるだろうと思っていたし、その素質も能力もあると言ってくれた。
私も、語学を教えること、言葉の面白さを伝えることが好きだった。
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だけれど、教員にならなかった理由は、「教員になったら私、仕事しすぎて病むか、過労死するって分かってるから」だ。
外国語を学んだことで私は世界が広がった。
価値観が広がった。
未来を感じた。
この感覚を色んな生徒に感じてほしいという思いだけが先走ってしまい、「私が専攻していた学問なのだから、先生だから」と張り切って、休みの日も研究やより良い教育、授業のために励んでしまうと思うし、好きだからこそ、私は頑張れる人間だからこそ、頑張りすぎてしまう気がする。
英語が嫌いだった生徒に、「いや、意外と面白いかも」と思ってもらいたいし、英語が得意な生徒にはどんどん力を伸ばしてもらいたいと思うからこそ、生徒に対して熱血に指導をする教員になるというよりは、自らに熱血指導をしてしまうと思う。
教員にならなかったことを後悔はしていない。
今からでも転職して、教員になることはできるとは思うけれど、きっとなることはない気がする。
私は語学を教えることがとても好きだから、あえてそれを仕事にしなかった。
私が大好きなことだから。