弁当は愛だと思う。
誰かのために作る弁当はもちろんだが、自分のために作る弁当も、愛だ。
むしろ、自分のために作る弁当こそ、愛そのものだ。

◎          ◎

一人暮らしをはじめて、毎日弁当を作っている。最初は節約をするため、ただそれだけだった。毎日外食は、高いから。
朝起き、米を詰め、ほうれん草を湯がき、ソーセージを炒め、卵を混ぜる。または休日に人参を炒め、ちいさなカップに詰め、タッパーに入れて冷凍する。お米だってまとめて炊いて、まとめて冷凍する。平日の私が少しでも楽になるように。

もちろん、節約のためだ。だけど、それだけじゃない。そう思うようになった。
私は毎朝弁当を詰めながら、こう思う。
「昼の私が、楽しくお弁当を食べられますように」
「お弁当を楽しみに、午前中頑張れますように」
「『美味しい』って思ってくれますように」
祈りのようなものを込めながら、蓋を閉じる。

◎          ◎

家にいる私と仕事をしている私は、体の外側を共有しているだけで、中身は全くの別人だと思っている。私は家に帰ったら全く仕事のことを考えないし、仕事をしている私は家のことなど全く気にしない。それぞれ、その時の自分のことしか考えていないのだ。……弁当を作り、詰めているとき以外は。仕事をする私と家にいる私がつながるほぼ唯一の接点が、弁当なのである。

家の私はいつも祈りながら弁当を詰めるし、仕事中の私は家の私に感謝をしながら弁当を完食する。常に互いを尊敬して、大切にして、弁当を介して会話をしている。

キッチンに立つ私は、自由だと思う。今週一週間食べ続けても嫌じゃないもの、なんなら好きなものはなんだろうと思いながら冷蔵庫を開け、そこにあるものを美味しいものにしたり、冷蔵庫にないものを買いに行ったりする。炒めたり茹でたりしながら、つまみ食いをして、「私は天才かも」なんて思ったりする。

日々の不満とか恐れとか、常に心のどこかにあるそこはかとない不安も、キッチンでは感じない。眼の前の食材と、昼に喜ぶ私のことしか考えない。

◎          ◎

先日知り合いに、弁当を作っている話をした。知り合いはすごいすごいと褒めてくれ、その後、ふとこう続けた。
「でも自分で作るお弁当って、なんかつまんないなー、って思うことありませんか?」
そんなことないのに、と思って、そのまま言った。

「私、自分の作るご飯が好きなんです。美味しいし、楽しいし、愛が詰まっているな、って思うんです。だって私、自分で自分の弁当食べながら『今日の私も天才!』なんて思っちゃうんですよ。ふふ、おかしいですよね」

知り合いは目を大きく見開き、それからクスクスと暖かく笑った。
「言葉にはコトダマがあるって言うじゃないですか。きっとすだれさん、誰よりも自分のことを愛せていますよ。自分のことを天才って思うってことは、きっと天才なんです」。

そう思ったことはなかった。私は私が嫌いだし、愛せてなんかないし、お弁当だって節約のために。……いや、そんなことない。お弁当を作ることで、私は私を認められるようになったのかもしれない。ものすごく嬉しかった。弁当を作っている自分も、それを喜んで食べる自分も、どちらの自分も、お互いに愛を送り合っているのだ。

今週は何を作ろう、と思う。豚バラはきのこを巻いて塩コショウで炒めようか。ほうれん草は大好きな胡麻和えにしようか。ご飯は、炊き込みご飯にしてもいいかもしれない。

全部私の好きなものにしよう。仕事をする私が今日も幸せになれるように、魔法をかけよう。