「好きだから 好きだけど」というテーマから、昔の恋人を思い出す人は多いんじゃないだろうか。
残念ながら私には、ふとした時に思い出して甘くて苦い哀愁に浸れるような「昔の恋人」は存在しないが、このテーマを目にした時にふっとよみがえった思い出があった。
◎ ◎
小学校卒業前から6年ほど習っていたクラシックバレエは、恋愛経験がほとんどない私にとって「昔の恋人」ポジションのような思い出である。
ここで、このエッセイを読んでくださっている方の中には、「小学校卒業前からバレエ?」と、文章を二度見する方もいるかもしれない。それもそのはず、大人向けバレエ教室が流行り始めた昨今でも、「バレエは3歳くらいから始めるのが当たり前」という考え方はまだまだ根強く残っている。実際、12歳から始めた私もすごく苦労したし、方々に迷惑をかけた。
小学校6年の夏、図書館で偶然見つけたバレエの本を通して、私は「自分もどうしても習いたい」と思い、文字通りそれしか考えられなくなった。
今から思うと、あれだけの情熱がなぜ生まれたのか分からない。図書館で片っ端からバレエの本を読み、地元のバレエ教室をネットで探した。自分はバレエを習えるのだと、幼かった私は根拠のない自信を抱いていた。
当然のことながら、親はあまりいい顔をしなかった。当時の私が、一般的な「バレエを習い始める年齢」をとうに過ぎていたということが大きかっただろう。もうすぐ中学校に上がる年齢でバレエに興味を持った私はとっくに「旬を過ぎていた」のである。
◎ ◎
拝み倒してやっとの思いで地元のバレエ教室でレッスンを受け始めたのだが、やはり幼い頃からずっと習い続けている周りの子たちとの壁はものすごく高かった。同い年の彼女たちが「トウシューズ」と呼ばれる、つま先立ちで踊るための硬い靴を履いて優雅に踊る傍ら、柔らかなバレエシューズを履いて基礎的な動きにも四苦八苦する私。
それでも、念願のバレエをやっと習えて本当に本当に嬉しくて。毎日「次のレッスンまであと何日~」と指折り数えていた。
他の教室だったら、私のような「旬を過ぎた奴」は、まず体験レッスンの時点で門前払いだっただろう。幸いにも、私が入った教室は先生も先輩方もとても心が広かった。旬を過ぎている上に呑みこみの悪い私に根気良く付き合ってくれて、難しい動き、分からない振り付けを習得できるまで色々なアドバイスをくれた。
大人になった今だからこそ痛感している。あの教室の人々がどれほど心が広く、当時の私がどれほど恵まれていたのか。
旬を過ぎてからのスタートではあったが、周りのサポートもありながら頑張り、ありがたいことに発表会にも何回か出させていただいた。
勿論、「この振り付けはあなたにはまだ踊れないから」という風に、同年代の女の子たちが皆参加している踊りに自分だけ参加できないということも何回かあった。それでも、「まだまだ下手だし、当たり前だよね」と思って、レッスンに通っていた。
◎ ◎
バレエがすごくお金のかかる習い事だというのは、習い始める前の情報収集の時点でよく分かっていた。トウシューズなどのこまごまとした道具一つ一つもそれなりに値が張るが、1番お金を持っていかれるのが発表会の出演料だった。
名前のある役を演じたり、外部から呼んでいるプロと踊ったりする先輩は皆、一人数十万は納めていたと聞いている。私のようにその他大勢枠で出る生徒も、10万は行かずとも数万円の出演料を払わないと発表会には出られなかった。
「大学生になったらバレエにかかるお金は自分でバイトして出してね」と親から言われていたし、言われなくてもそのつもりだった。
バイトをすれば今よりレッスンの回数を増やせる。今より上手くなったら、出演料が追加でかかるような踊りのオーディションにも挑戦できる。
習い始めて6年、私はバレエに対して変わらず熱狂的な情熱を変わらず持ち続け、レッスンに通っていた。これから先も自分はずっとバレエが好きなのだと信じていた。
そんな価値観をあっけなく変えたのが、バイトだった。
高校3年の終わりから人生初のバイトを始めたのだが、そこでの仕事が絶望的に合わなかった。個人経営の小さな飲食店で、二人以上のバイトが同時に入ることは基本的にない。あれをやってこれもやって、あの仕事も一人でやって、というバイト先での空気に、前述の通り呑みこみの悪い私はあっという間にパニックになった。
「悪いと思ってるならスピードで示して」と言われて泣きながら帰った日のことは、きっと一生忘れられないだろう。
「お金を稼ぐのってこんなに大変だったのか」。そう悟った時点で、たぶん私の中で何かが変わり始めていた。
◎ ◎
やっとの思いでバイトに少し慣れた頃に、今度は大学生活が始まった。
楽しい新生活ではあったけれど、高校とは何もかもが違う世界。私は、少しずつストレスを感じ始めていた。
「思っていたより大学が忙しいので、しばらくレッスン休みます」
先生にメールを送ったのが大学1年の初夏。それから私は、1度もバレエ教室に行かず今に至る。自然消滅のような形で、あれほど好きだった習い事に別れを告げたのだ。
今でもバレエのことを思い出すと、何とも言えない気持ちになる。
もう少し習っていたら、何か変わっていただろうか。最初のバイト先が自分に合ったところだったら、宣言通り自分でお金を出してバレエを続けていただろうか。
昔の自分がひたすらバレエに向けた愛や情熱を、とやかく言いたくはない。でも、あれだけ遅い年齢から習い始め、親や教室など方々に迷惑をかけた挙句あんなにあっけない形で終わったのか、と思うと、自分を許せなくなるのだ。
いつかこの葛藤に、決着をつけられる日は来るのだろうか。
バレエが大好きだったから。
バレエが大好きだったけれど。
今でも、髪をお団子にまとめて姿勢よく街を歩くバレエっ子の姿を見ると、見てはいけないものを突き付けられた気がして目を逸らしてしまう自分がいる。