私はネガティブなもの、つまり影があるものが好きだ。

小説では絶望の淵にいて、なんとか限界を生きているようなものに惹かれる。音楽でも、「殺したい」とか「死にたい」とか「許せない」とか「めんどくさい」といった歌詞の曲が好きだ。

ネガティブならなんでも惹かれるわけではないが、美しいものがネガティブだと惹かれやすい。もうこの言葉は定着しつつあるが、俗にいう「メンヘラ」と揶揄されるものが多いかもしれない。

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「メンヘラ」は、最近ではやや優しくみられることもあるが、依然忌み嫌われることが多い。でも私は誰がなんて言ったってネガティブな感情の作品が好きだ。

そういうものに触れると、私は生きている実感が得られる。自傷行為で生きる実感が得られる、落ち着くことに似ているのかもしれない。

もちろん温かい幸せを表現した作品も好きだ。でもそれだけしかこの世になかったら、私は気が狂ってしまうと思う。

違う、そんなはずはない。世界が何の曇りもなく真っ白なんて嘘つきだ。この世には必ず目をえぐったような悲惨なことがあるはずだ。それを無視する世界なんて、なんて気味が悪いのだろう。そう思うに違いない。

だからといって誰にでも私の趣味を公言したり、人に強要したりはしない。それは人間界でのルールだと思うから。話す相手を間違えれば、迫害される。そして私がポジティブよりネガティブが好きなのを許されるには、ネガティブよりはポジティブが好きな人のことも許さなくてはいけないはずだ。

好きでいるのは自由だ。しかし人間であって社会的な生き物であることは忘れてはいけない。ロリコンの人が幼児を好きなのは自由だが、何か事件を起こしてはいけないのと同じようなことだ。

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再び言うが、私はネガティブな作品が好きだ。そういうもの達に癒やされている。それらはなくてはならない薬だが、時期によって必要な量が変わる。

私は一番ネガティブを必要としていた時に比べると、今はそれほどそれらを必要としていない。好きは流動的だ。ネガティブはたぶん私は一生好きだと思うが、それは絶対ではないと思う。

もしかしたらポジティブの方が好きになることもあるかもしれない。でも、ネガティブによって私は生かされたし、今も生かされている。だから過去の私と今の私にとってそれは大切なものだったということはもし気持ちが変わっても未来の私は思うはずだ。

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以前はネガティブに関して受け身で、自分から何か発信しようとは思わなかった。今は自分でネガティブな作品を作って発信しようとしている。私がかつて夜の航海の時間にネガティブな作品に救われたように、私も誰かを救えたら私は生きている意味を実感できると考えている。

それらは小説やエッセイだ。音楽や絵なんかもやってみたいと思っている。こんなふうにかがみよかがみに投稿するのもその活動の一環だ。

誰も見向きもしないかもしれない。でもひょっとしたらちらっと私のメッセージを読んで少しでも心が楽になる人もいるかもしれない。

それを信じて私は今この文章を書いている。