「どこまで帰るん?俺も外の空気吸いたくて。あれやったら送るで」
エレベーターのボタンに手をかけながら、私を見つめる彼。打ち上げの帰り。あぁ、まだ一緒にいられるんだと嬉しくなった。

◎          ◎

大学4年生の私と、3年生の彼は在日コリアンで、同じルーツを持つ学生が集まるサークルに所属する。最近まで共に民族楽器の演奏会の練習に打ち込んでいた。演奏会は私と彼を含めたサークルの仲間13人で出演し、大成功を収めた。

練習を振り返ってみると、最初は本当に大変だった。在日コリアンでありながらも日本国籍、日本の学校に通っていた私は朝鮮の民族楽器に触れたことが全くなく、ましてやハングルも読んだことがなかったからだ。

周囲の仲間はほとんどが朝鮮中高級学校出身で、ハングルも読め、民族楽器の演奏も初めてではない。練習についていくことが出来るのか、不安になった。そんな私を安心させてくれたのが彼だった。

彼が一番、仲間の中で演奏が上手く、練習を指導する役割にあったのもあるが、初心者の私に楽譜の読み方から楽器の使い方まで丁寧に教えてくれ、自主練にもつきあってくれた。それだけではなく、練習場所に誰よりも早く行き、一人黙々と練習する等、まじめで努力家な一面もあった。

◎          ◎

彼が楽器を奏でる姿は凛々しく、その音は力強い。だが皆に分け隔てなく優しく接し、時折クシャッと笑う。
そんな彼に、最初は憧れているんだと思っていた。だが練習中、楽器を奏でる彼から目を離せない自分がいたり、彼が隣に座っただけで鼓動が早くなることに気がついた。次第に、日々の中で彼のことを考える時間が増え、街中で無意識に彼の姿を探すこともあった。
憧れなんかじゃない。まぎれもなく、私は恋をしているのだ。

だが、22年の人生の中で恋人が一人もおらず、恋愛に疎い私は、この感情に気づいたとて、どうすればよいか分からなかった。彼と他の女の子が話しているのを、黙って見ていることしかできなかった。そのうちに日々は過ぎ、本番を迎えた。

開演直前まで練習をみてくれる彼にときめきつつも、想いは胸にしまい、演奏に臨む。本番の後、皆で居酒屋にむかい、打ち上げが始まった。

打ち上げが終われば、彼に会える機会はほとんどなくなってしまう。だから、このときばかりはできるだけ彼に話しかけようと頑張った。だが、幸せな時間は長く続かなかった。

◎          ◎

鳴り響く着信音。携帯から聞こえてくる母の声。いつまでいる気だ、早く帰宅しろという言葉に、うんざりしながら席を立つ。この暗闇の中で一人、駅へ向かうことに、一抹の恐怖を覚えつつ、店を出る。そのときだった。
「待って」
振り返ると彼がいた。思わず目を見開く。
「どこまで帰るん?俺も外の空気吸いたくて。あれやったら送るで」
駅への道を出来るだけゆっくり歩く。他愛のない話をしながら彼の横顔を盗み見る。一つ下だけど、なんだか大人びて見える。

もう、お酒の勢いで告白してしまおうか、とも思った。だけど、今の関係を壊したくない。

悶々とするうちに駅に着く。言えなかった。このまま別れるのは嫌だ。

◎          ◎

「あのさ、もう、これきりになっちゃうかな。会えなくなっちゃうの寂しくて」
思わず言葉を紡ぐ。
「追い出し会、来る?」と彼。
「うん」
「じゃあ、そのときに」
「うん、ばいばい」

彼の背中を見つめながら、次会った時に気持ちを伝えようと思った。あなたに好きになってもらえるように、頑張らせてほしいと。もしかしたら恋人がいるかもしれないし、玉砕するかもしれない。それでも、行動しないと変わらないから。
好きだから。一歩踏み出して、成長したい。