熟れた真っ赤なトマトを沸騰したお湯にさっと通し、キンキンの氷水に浸す。お尻の方にナイフで切り込みを入れると、皮が剥がれて少し透明感のある新しいトマトが現れる。

一口サイズに切ったらガラスのコップに敷き詰め、上からグラニュー糖を薄い雪のように降らせる。冷蔵庫でじっくり半日置いておくと、砂糖の染みたトマトから水分が出てコップに溜まる。

これが私にとってのトマトジュースだった。

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両親が共働きで、2人とも夜遅くまで家に帰らなかった。そのため私と妹は同じ敷地内に住む祖父母と時間を過ごすことが多かった。

学校から帰るとすぐに祖父母の家に行って、おやつを食べながら宿題をする。少し昼寝をして、おばあちゃんが作ってくれた夜ご飯を食べる。

子どもの時に母親がつくってくれて慣れ親しんだ味について「おふくろの味」というけれど、私はおふくろよりも「おばあちゃんの味」ですくすく育ったようなものだと思う。

おばあちゃんは当時には珍しく大学卒で就職もしていたけれど、すぐにお見合い結婚をしてからは50年以上専業主婦だった。1日のほとんどを家事に費やし、友達もほとんどおらず、家事をしない時間は相撲を見ているか、私の相手をしてくれていた。

どんな気持ちでお見合い結婚をして専業主婦になったのか、今なら気になるけれど、10才にもなっていないその頃は考えもしないことだった。

おばあちゃんはとにかくいろんな料理をふるまってくれた。天ぷら、チキンライス、親子丼、ほうれん草のおひたし、カレイの煮付け、カレーライスじゃなくてライスカレー。

おばあちゃんは何故かカレーライスではなく、ライスが先のライスカレーと呼んでいた。チキンライスはライスチキンではなかったのは、今思うと不思議でならない。

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料理を教わればよかったと後悔したのは、おばあちゃんが認知症になって施設に入り、私が小学校を卒業する頃だった。あんなにもしっかりと家事をこなしていた人だったのに、すっかりと私のことを忘れてしまって、色んなことが分からなくなっているようだった。

だけど怒ったり悲しんだりすることはなく、いつも静かに落ち着いているのは、病気の前と変わらないところだった。

おばあちゃんが亡くなって持ち物の整理をしていた時に、色や形が様々な茶器が沢山出てきた。そういえば家には茶室もあった。おばあちゃんが若い頃、近所の人たちを生徒さんにして、お茶の先生をしていたというのもそれまでは知らなかった。大学に入学して茶道の授業をとった時、少しおばあちゃんのことを知れた気がして嬉しくなった。

私が就職する頃には妹が大学生になり、おばあちゃんと同じ大学の生徒になった。学部は違うけれど、おばあちゃんと同じ大学に行けたことを妹も私もとても誇らしく思うし、なんだか愛おしい縁だなと思った。

おばあちゃんが生きていたらきっと喜んでくれただろうな。いや、やっぱり結構ドライな性格だったし、「あら、よかったね。でも食堂の味はそこそこよ」なんて返していたのかな。

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かくいう私は特におばあちゃんに誇れることはなくて、転職してやっと見つけた大好きだった仕事も、会社が事業をたたんで全員解雇になってしまった。去年末は経験したことのない悲しみに打ちひしがれて、そこからの仕事探しもなかなか納得する結果が出ずにずっと時間が過ぎている。

それでも春が近づいているし、お腹はちゃんと空く。

私がおばあちゃんから教えてもらったことでしっかりと覚えられていることは数えるほどで、けどトマトジュースだけは自信を持ってつくることができる。

いつもデザートに作ってくれた、トマトジュースという名のトマトの砂糖がけ。トマトが旬になる頃までにもっと誇れる自分になるよ。おいしいトマトジュースを仕事終わりに笑顔で食べられますように。