私は文章を書くことが好きだ。
一番初めに文章を書いたのは、確か小学校の課題だったと思う。読書感想文を原稿用紙2枚ほど書けば提出できる課題を私は何枚も何枚も書き、先生に褒めてもらったことを覚えている。今思い返すと、文章のまとまりがなくて長々とした内容になってしまっただけのような気もするが。
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学年が上がると、創作文を書く授業があった。その頃の私は妄想癖が暴走しており、自分の頭の中にあるものを書き出せることがとても嬉しかったことを覚えている。書いた創作文は、とても拙いミステリーものだったが、これもまた、先生や家族に褒めてもらい、ご満悦だった自分をよく覚えている。
しかし、もう少し年齢が上がっていくと、書くことについての意識が変わり始めた。
幼いころは自分の書きたいものを書きたいままに綴っていたが、中学生にもなると、課題に合ったものや、相手が求めている文章を書くようになっていた。求められている文章を書くことは簡単だったが、小学生の時のように、文章を書くことへの楽しさは感じなくなっていた。
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高校生になっても、その悪癖は抜けなかった。課題として求められている分量を、求められている熱量で書いていた。全く面白味のない文章だし、この時も書いていて楽しくはなかった。
それから、折々で文章を書くタイミングはあったが、気持ちの乗らない、ありきたりな文章を書き続けていた。いつしか私は文章を書くことが好きであることを忘れていた。
社会人になって、仕事として文章を書く機会はあったが、読書感想文や創作文を求められることはもちろんなかった。いつしか私は、自分が文章を書きたいと思う気持ちさえなくしてしまっていた。
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そうして社会人5年目の夏、私にとって人生の転機とも呼べる、鬱病を発症する。鬱病になり、休職してからは時間が余るほどあった。
寝て起きて、寝て起きて、寝て起きる。窓の外の明るさの変化だけが時間の流れを私に教えてくれた。
そんな時、ふと自分を省みるためにノートパソコンを開いたのが、私とエッセイの出会いだった。
ワードに自分の頭の中にあるものを書き連ねている時間は、かけがえのないものとなった。まさに私が私として歩き始めた瞬間だったと思う。
書き終えた文章を何度も読み、公募に応募すると、達成感とともに自分のことを肯定できる自分と出会うことができた。また、エッセイを書いていくことで、自分の中の自分と対話できているような、自分の記憶の整理をしているような、なんとも言い難いが、自分のことをよく考える時間を作ることができるようになった。
そして、私はまた、文章を書くことが好きだと思えるようになった。
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今は、まだ闘病中で、現在の職場に戻れるかどうかもわからず、不安でいっぱいだが、今後は文章に携わる仕事ができたら幸せだと思う。もしそれが叶わなかったとしても、時間を見つけて文章を書くことを続けたいと思う。それが、私が私にしてあげられる、私を前進させる方法であると思っている。
せっかく歩き始めた自分の歩みを止めないように、頭の中に広がる私の世界を、ワードの文字として書き起こしていければいいなあと、密かに未来への希望を抱いている。