元カレが漫画家としてデビューした。どうやら恋愛漫画らしかった。
その日のSNSは妙に騒がしかった。「デビュー」「おめでとう」の文字が飛び交う画面を見て、嫌な予感がした。それは的中した。

元彼が漫画家デビュー。タイトルの二文字を見て別れた日を思い返した

私は当時、漫画の専門学校に通っていた。同級生の元カレが、漫画雑誌の新人賞で佳作を取り、在学中に漫画家デビューした。わずか19歳だった。
タイトルは『初恋が実るまで』。読まなくてもなんとなく内容が分かる。「初恋」の二文字に、心臓が泡立つような、また身体を打ちつけたような妙な心地がした。

彼とは学校の講義で同じグループになったことで知りあった。系統こそ違ったものの、デビューに向けて漫画を書き続けているという熱意が互いにあった。
二度目のデートで、彼から告白されて付き合った。最初こそ、遊園地に行ったり、手を繋いだり、公園で花を眺めたりした。それらも付き合って二か月経った頃にはなくなった。
「いなくなってしまいたい」
泣きもせず、同じ言葉を繰り返していた。私は、理由もなくずっと精神的に不安定だった。家庭の問題が重なったこともあるが、根本の原因はそれではなかった。四六時中、得体の知れない寂しさや無力感が纏わりついている感覚だった。
正直、元カレとは価値観が合わなかった。彼はライトで爽やかな音楽を好み、私は古い歌謡曲が好き、彼は一人の時間がないと嫌、私はできるだけ人と一緒に過ごしたい、彼は夏が好き、私は祭りが嫌い……。心地のよいズレかたではなかった。
正体の分からない「死にたさ」と「ズレ」を埋めるように、私は彼を何度も試した。
「本当は私のことなんて好きじゃないんでしょう」
「別れようよ」
「わたしが死んだって、別にどうも思わないのでしょう」
さらに私は彼との性行為を徹底的に拒んだ。肉体を介さず、精神性だけを愛してくれるか試したのだ。
そんな調子だったから、破局を迎えるのはあっという間だった。
「面倒なんだよ」
雨上がりの時計台の下、別れを宣告された。彼が「メンヘラ」や「付き合いきれない」等の言葉を並べ立てるのを、ただぼんやりと聞いていた。
色んな感情が渦巻いた。彼への未練、私の至らなさ、ぶつけどころのない憤り。弁明し、別れを止めようとした。だけど彼の意思は固かった。
何か爪痕を残したい。そんな彼に、私はこう言い放った。
「明日、初恋の人が会いに来るんでしょう」
その言葉に表情が一瞬ひきつったのを、見逃さなかった。

ずっと初恋を引きずっていた彼。私の事なんて好きじゃなかった

別れ話の三日前だった。
「昔の彼女が地方から会いに来る」
彼はばつが悪そうに言った。彼の元カノ、いわゆる「初恋の人」が東京へ来ようとするのは、これで二度目だった。
付き合いたての頃こそ、二人きりで会うのを断っていたようだった。けれどその時既に関係は冷えきっていた。
「ちゃんと夕方には解散するから」
そう言って彼は、元カノを東京案内する許可を下ろさせた。本当は嫌だったけど、ただでさえ喧嘩が絶えないなかで、彼を束縛して揉める気力がなかった。
初恋の彼女はきっと、恋人がいても会いたくなるくらい、魅力のある女性なのだ。私が止めても彼の気持ちは止められない。
行かないで欲しい、の言葉をぐっと喉元に押し込めた。

「だからなんだよ、もう別れたんだから関係ねえだろ」
彼は私を睨み付けると、時計台を去った。恋愛関係が終わった男女は、簡単に敵同士になる。彼の中で完全なる悪になった私は、しばらくそこに立ち尽くした。
帰り道は雨だった。時期はちょうど梅雨に差し掛かっていた。雨が続くと、体も心も重くなる。別れや人間関係の悪化を経験するのは、きまって6月な気がする。いやな季節だ。
歩きながら、さまざまなことを考えた。
私は彼がたしかに好きだった。なぜ好きだったのか、じっくり考えたことはない。自分よりずっと人間らしい人間と、恋人として契約していることが気持ちよかったのかもしれない。
いっぽう彼は初恋を引きずっていた。私の事なんて本当は好きではないこと、寂しいから手近な女に近づいたこと、すべて察していた。雨に濡れた肉体が重い。
傷つけてやろうと思ったのかもしれない。

運命は私によって狭められた。彼の中で悪として存在し続ける人生

お祭り騒ぎのタイムラインを見て、SNSを閉じる。
私は交際中でさえ、彼の漫画が好きではなかった。何番煎じの恋愛もので、ストーリーも言葉選びも、突き抜けた面白さはなかった。例えるなれば、知り合いの出ているポルノビデオを偶然見つけて鑑賞したような、下品な読後感があった。
「ヒロイン」として据えられた初恋の彼女が、どんな容貌や性格、生い立ちかは知らない。彼の創作欲を掻き出すような何かがあるのだろう。考えてもきりがない。
彼の漫画の性質上、ヒロインや主人公は「世間の人間とは違う尊さの中にある」みたいな描き方をするはずだ。ヒロインと主人公以外の人間は徹底的に貶める。汚いやり口だ。
世間の人間とは違う、なんて勘違いも甚だしい。世間の人間が皆違うのは当たり前だ。それぞれに抱えるものは違うし、見えるものもあれば見えないものもある。
本当の悲しみや、不安や挫折をあの男は知らない。憎らしいほどおめでたい男だった。
だからこそ、たとえ漫画のなかだろうが簡単に他人の人生を貶めることができる。私はそんな彼を傷つけてやりたかった。あの男は、私のなかのあらゆる嫌悪感の投影だった。
初恋の陰に立った女は、醜い者として描かれる。物語の中の悪役として、また彼の中で悪として存在し続ける私の人生は、醜いのだろうか。今後、誰かを受け入れ、誰かのヒロインになることはできるのだろうか。私のみならず、世の中の悪女たちは皆、ヒロインには成れないのだろうか。そもそもヒロインとはなんだ。私たちは消費されゆく物語ではない。
打算ではない恋愛とはなんだろう。きっと不安ではなく尊重の上で接することのできる人、体を安心して重ねることのできる人、傷つけないで守っていきたいと思える人と出会うこと。言い表してしまえば、そういうことだろう。
私にはどこにも居場所がなかった。恋とか、愛とか関係がなかった。「いなくなってしまいたい」と少しでも思ったあの日から、運命は私の手によって狭められていった。
本当の恋愛とは、分かち合うことだ。私たちのなかにある問題を、共に考えていける、そんな人が必要だ。

漫画の枠線の外で、悪女は今日も考える。
もし私に愛する人ができたなら、漫画に登場させたり、表現したりしない。
登場人物ではない、「わたしの中のあなた」として大切に関係を紡いでいく。それが私の正当な「闘い」になっていくだろう。
想像力のない人間に、どうか負けないで。