地方出身の私は物心がついた時から、大人になったら絶対に家を出て東京で暮らす、と心に決めていた。

東京、トウキョウ、とうきょう、TOKYO……。
日本のカルチャーやトレンドの発信源。
日本に生まれたからには、東京という街で一度は暮らしてみたかった。
太陽はどこに居ても浴びることが出来るが、東京のネオンはどこでも浴びれるものじゃない。

◎          ◎

他人に生活費を心配されようが、他の街ではダメなのか、と問われようが、私には東京しか考えられなかった。
他人の薄く浅い無責任な言葉たちは、私の強い意志を止めるにはあまりにも無力だった。 
「貴方のためを思って」と心配の言葉を口にする人間もいたが、「ここで私を止めたら死ぬまで貴方を怨むよ」と言い放つ私であった。

"心配"という感情は、持つ側も持たれる側も"不"しか生まないと思う。
そんな言葉に放つ意味などあるのだろうか。
物騒な事件に巻き込まれる想像をしているのか知らないが、死ぬ気で毎日を悔いなく生きている私にとって、死など何も怖くなかった。
それよりも刺激の無い日々を過ごす方がよっぽど怖いものに思えた。

両親は障害物も何も無い、安全で平和な無色透明の汚れ無き道を私に歩ませたいのかもしれないが、そうした人生の果てに人は幸せを観ることが、感じる事が、できるのだろうか。
本当に人のためを思うのなら、愛を行動で示したいのなら、心配ではなくあらゆる"経験"を与え、ただただ黙って心の中で応援すべきだと思う。

◎          ◎

私が家を出たかった理由には、シンプルに幼少期から自分の家庭が好きにはなれず、この家に居続けたらおかしくなる、というものがあったのだが、今となってはその感情が持てる家庭で育った事に寧ろ感謝をしている。
家族というのは子供にとって、ある種、"宗教"だと思う。
その場所から逃げる事は出来ずに支配され、そこでのルールが絶対であり、自らを知らぬ間に形成されてしまうのだ。
その家を出る機会がなければ、その"宗教"の違和感に気付くことはないのかもしれない。

そんな私が上京して出会ったのは、東京生まれ東京育ちの男だった。
彼は年上で、実家暮らしをしている一人っ子だった。
真面目で常識人な彼は私を宇宙人のようだと笑う。
「嫌いな食べ物?ないよ。親が厳しかったから、そういうの許されなかったんだ」
昼食を食べに行こうとした際の何気ない会話だった。
彼は自然にそう言った。
けれど私はそこに凄く嫌なモノを踏んでしまったかのような気持ちの悪さを感じた。

それ以降も彼からは、しきりに"我慢"を日常としてきた人間特有の柔軟に欠けた硬さや陰湿的な暗さが溢れ続けた。
彼には常に我慢が癖付いていた。
それは仕事ではパワハラ、恋愛では彼女からのDV、という形で実際に身体を痛めつけていた。
だが、彼に我慢の自覚はなく、全て自分が悪いのだと卑下するだけだった。

◎          ◎

彼にはとても言う気になれなかったが、このような彼を形成してしまったのは長年のご両親の"教育"という名の"宗教"にあるのではないか、と思った。しかしそれは私にも言えることであり、完璧で欠点の無い親が存在しない以上、全ての人に当てはまる訳だが、だからこそ子供は、人は、たくさんの人や環境に出会って自分の中に無意識に作られた常識に違和感を持つ機会を与え、狭い視野や感覚ではなく、広い価値観やセンスで生きることのできる道を与えることが大切なのだと思った。
まさに「可愛い子には旅をさせよ」。

当時、彼は20歳を超えていたが、彼に一人暮らしをする意思はないようだった。
私はその時、自分が東京に生まれなかったことを初めて良かったと思った。
もちろん、私のような田舎者が頭に思い浮かべる"東京"と、東京出身者が頭に浮かべる"東京"は全く違うものだろう。
だが、私もこの街に生まれ育っていたのなら、一人暮らしの選択はなかった気もする。
どちらが良い悪いの話ではない。
ただ私は、彼は自分という存在の大切さに気づくためにも、自分という人間を理解するためにも、両親と生活を共にしない方が良い気がした。
だが、貯金が出来ることや家事をしなくて良いことなど、彼もまた両親に依存していた。
彼の中には両親の顔色ばかりを気にしていたであろう"いい子"な彼が、未だに生きている。
彼は恐らく今も両親を絶対の存在として信じて疑っていない。

家族というシステムに飲まれないこと。
これは凄く大切なことなのかもしれない。