後輩という言葉に収まらないほど、彼の存在が大きすぎる。友達と呼ぶには私の気持ちの一方通行で成り立たない。きっと彼にとって私はただの先輩でしかない。でも、私は先輩と後輩なんて関係に収められない。

いまだに私が関係に名前をつけかねている男の子がいる。

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彼との出会いは高校生の時。私は高校のオープンスクールの運営メンバーの1人だった。私が高校1年生の時のオープンスクールに来てくれたのが、中学3年生の彼だった。

彼は熱心で、オープンスクールのたびに顔を合わせていた。在校生と中3生の関係。この関係が半年ほど続いていたからこそ、先輩と後輩という意識がお互いの中で強くなっていたのだと思う。

彼が入学後も授業などで接点があった。私の通っていた高校には、所属している学年に関係なく参加できる授業が多くあった。そのうちの2つの授業で顔を合わせていたのだ。

グループワークやディスカッションなどの時間を共に過ごした。だから、お互いの得意なことも知っているし、もちろん苦手なことも知っている。そんな関係になっていた。でも、私と彼の関係は先輩と後輩でしかない。

時は流れ、高校3年生になった。彼とはその年も同じ授業を受けることになっていた。授業のことは好きだけれど、私はそこで孤独感を感じていた。

同じ学年の友人たちは、3年生になり、受験に力を入れた科目を中心に履修するようになっていた。私と彼が履修している、ディスカッションがメインの授業にはほとんど顔を出さなくなっていた。

顔なじみばかりだけれど、ほとんどが後輩。私は嫌でもディスカッションをファシリテートしていく立場になっていた。グループワークをリードしていく立場になっていた。先輩というポジションを求められた。

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「先輩みたいになりたいです」

「先輩が憧れです」

たくさんの後輩が慕ってくれた。いつも周りには人がいて、さみしさなんて感じるはずがなかった。

でも、私は孤独だった。私は追いかけられるより、隣を一緒に走ってくれる誰かがいてほしかったのだ。でも、慕ってくれる後輩たちには、弱音なんて吐きたくない、かっこ悪いところなんて見せたくない。そう思って振る舞っていた。だからこそ、余計に私は先輩になるしかなかった。

でも、そんな私を彼は孤独にさせなかった。一緒に隣を走ってくれた。

授業中に「先輩の意見だから賛成」という理由で全体の意見が傾きそうになることがあった。そんな時、彼が「先輩の意見も正しいと思いますけど、僕はこういう見方もできると思いますけどね。先輩はどう思います?」と言ってくれたのだ。

先輩の私と後輩たちの間にあった、目には見えない透明な壁を壊してくれた。そして、隣を一緒に走ろうとしてくれている。私はすごくうれしかった。卒業までの間、彼は私の隣を走り続けてくれた。

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卒業後の今も関係は続いている。お互い進路や将来に悩んだ時、相談をする。先輩や後輩の間にある遠慮は私たちにはない。友達のように、ズバッと本音を言い合える。率直な意見が聞ける安心感がそこにはある。彼にはかっこ悪いところも見せられるし、弱音だって吐ける。でも、この関係に私は名前がつけられない。

ふと、この一方通行な気持ちは推しに似ていると感じたこともある。でも、推しと呼ぶのは私には重すぎた。

推しという言葉には先輩と同じくらい孤独を招く力があると思う。一方的に憧れられて、追いかけられて、隣には誰もいない。そんな思いを彼にはさせたくない。だから、推したいけれど推さない。そう心に決めている。

きっと無理に私たちの関係に名前をつける必要はないのだろう。私は名前に縛られるという孤独を誰よりも知っているのだから。

この名前がいつまでも見つからない関係そのものが、私たちの関係を表しているのだと思っている。