昔から「先輩」と呼ばれることが嫌いだった。

私の生まれ育ったところは田舎で、小中学校は一貫校、小学校は全校生徒100名、中学校は50名ほどしかないような環境だった。町で唯一の保育園を卒園し、町で唯一の小学校へ入学。中学卒業まで同じクラスメイトなのだ。

◎          ◎

そうすると何が起こるかというと、他学年の顔と名前もだいたい把握してるし、小学校のときには昼休みに学年関係なく一緒に遊ぶ。1年生にとって上級生はお兄ちゃんやお姉ちゃんで、6年生にとって下級生は弟や妹のような存在になる。小学校時代は学校自体も他学年と仲良く遊ぶことを推進していた。

しかし中学校に入学すると、いきなり上下関係が生まれる。今まで上級生でも○○くん(ちゃん)で呼んでいたものを、「○○先輩」と呼ばなければいけなくなるのだ。そして有無を言わさず敬語を使えと教えられる。

ゾッとした。今まで一緒にサッカーして優しくしてくれたあの人に、もう○○くんと呼んで甘えることはおろか、敬わなければならないなんて。小学校と中学校はまったくの別世界だった。

◎          ◎

その苦痛は自分に後輩ができても続いた。後輩に「瀬璃先輩」と呼ばれると鳥肌が立った。今まで一緒に登下校していた妹のような存在の子が、急に大人になって、そこはかとなく距離ができた気分。私にはもう甘えられません、と突きつけられたような。
だから私は仲のいい子に対して「先輩って呼ばないで」と言った。今まで通り接してほしかった。

でもその子たちは困ってしまった。もっともだ。本人がいいと言っても、コミュニティでルール化されていることをそう簡単に覆せるわけではない。むしろ「瀬璃先輩」と呼ぶほうが、彼女たちにとっては正解で楽なのだ。

◎          ◎

そんな感覚が抜けないまま、高校に入って私は部活に所属した。高校の部活は中学校よりも厳しい上下関係があった。部活に来るときには先輩より早く、帰るときには先輩より遅く、部活外の普通の高校生活でも先輩に会ったら挨拶をしなければいけない。日本の礼儀を愚弄するわけではないが、どこか捻くれている気がする。
とはいえ、そんな文化を生み出したのは先輩方ではなく伝統的なものなので、私は努めてその伝統を実行した。しかし努力も虚しく、先輩からこんな指摘を受ける。

「瀬璃は校内ですれ違ったときに挨拶をしない」
頭の中がハテナだらけになった。なぜならまったく身に覚えがない。すれ違ったら挨拶しているし、無視した覚えは一切ない、言いがかりだ。

が、数日前の友人とのやり取りを思い出してハッとした。

友人と歩いていたとき、すれ違った男性について「今の人かっこよかったね」と友人が言った。しかし見ていなかった私は「ごめん、見てなかった」と言う。そんな私に友人が「え、嘘でしょ!なんで見てないの!」と少し怒った。
なんで見てないの、と言われましても……とそのときの私は反応に困ったが、あれが日常茶飯事だとすれば、私はもしかして気づかないうちに幾度となく先輩とすれ違っているのではないか。

◎          ◎

それに気づいた瞬間、なんともいえない理不尽さを覚えた。

確かに私の不注意で申し訳ないが、常日頃から人間観察して先輩を見つけて挨拶をして……なんてくだらないことやってられない。そもそも気づいたら必ず挨拶しているのだ。

している回数としていない回数は、要するに私が先輩に気づいた回数と気づいていない回数なので、怒られるほどこちらに罪の意識はない。むしろなぜ怒られねばならぬ。

日常すべての先輩の存在に気づけ、と言うならば、「日常生活でも先輩に挨拶を」という文化ごと否定してやりたい。

ぐぬぬ、という気持ちでとりあえずその場は謝った。

私はどうやら先輩後輩という関係に不向きらしい。結局、高校の部活でも後輩に「先輩って呼ぶのやめて」と言ってしまった。困らせると分かっているのに。校内ですれ違って気づいたときには私から挨拶した。後輩には先輩に先に挨拶させてしまったからか謝られた。

でも、私の気持ちも理解してほしいのだ。上を敬うという文化は素晴らしいことだが、強要するほど必須かと聞かれれば私はNOだと思う。所詮は人と人、挨拶も関係も平等でいいじゃないか。