「私のこと好きでしょ?」
その言葉で私は何人、大事な人を潰してきたのだろう。
大事な彼も、友人も私のそばからいなくなった。いなくなって、いなくなって、やっと気づいた。私は悪魔だった。
わがままやお願いが通らない度、私のことが好きなのに、なんでできないの?
本気でそう思っていた。
今思えば、よくわからないフィールドだけ自己肯定感が高かった故の思想だったかもしれない。
◎ ◎
誰かを愛するのがずっと怖かった。それの裏返しだった。
私が人に愛をあげた瞬間、その関係が終わると震えていた。
相思相愛なんておとぎ話だと思っていた。
自分が片思いをして、両思いになって、付き合う。その経験を高校生くらいまでに一度しとくべきだったのかもしれない。
私は自分から相手に圧倒的に一途な片想いを抱き続けてフィナーレを迎える恋か、向こうからのアプローチを受け入れて惰性で付き合った恋しかなかった。つまり、一方通行こそが愛だと、そう認識せざる得ない世界で生きてきてしまった。
だから両想いを続けることがわからなかった。
例え、惰性だとしても両想いになったとて、私にとってはもうそれがゴールのように感じてしまうから、その先どうやって愛を示し合っていけばいいかまるでわからなかった。
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普通じゃない恋ばかりしてきたから。そう言ってしまえば逃げられる。それでも最近ではもう逃げられない気がしている。それがひしひしと怖いのだ。
周りと自分を比べる必要なんてないとみんな言うけど、実際は比べないと生きていけない思想になっている。だって幼い頃から、十人十色だと教え込まれる一方で、同調圧力の国で生きてきたわけだから。
どんなに私が自由な恋愛をして、どんなに破滅しても、それすら自由だけど、いつもどこかで誰かに咎められている気分になってしまう。あまりにも悲しい性だけど。
でも、だからといって人間を使い捨てにして恋愛するのはもう私、違う気がしてる。
自分のエゴに他人を連れ回して、お姫様のような気分になるのは、いつになっても優越感と幸福感でずっと嬉しい。でも、またみんないなくなっちゃうかもって不安に駆られるのは嫌だ。
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自分が嫌だと思うことは、誰かにしちゃダメだよ。
幼稚園児にだってわかる事が、私は大人になってわからなくなったのかもしれない。正確に言うなら、わからなくなったふりをしたのかも。良い子でいるのに疲れちゃったから。はたまた、心優しい人たちに甘やかされたから。はたまた、本当は親から欲しかった無償の愛を埋めるため。ああ、羅列すればするほどわかる。もう全部当てつけなんだろうなって。
それに加えて、元々特に何がきっかけでもなく男性不信の私は、男に尽くしてもらって当然だと思う気持ちが強すぎたから、余計に男を使い捨てのように扱ってきたのだろう。
どんなに屈強で心優しき男でも、いつかはボロボロになって、最後には私のそばから離れてく。
最後には私が彼らを傷つけてきた分だけ、私も傷つくことになるということ。繰り返される惨劇の中で、私はようやくそれを知った。
与えるは奪う。
その言葉が私を貫いた。
与える側は、与えるのをやめれば救われる。でも、与えられていた側の私は、当たり前にもらっていたものが突然なくなるという恐怖や喪失感を味わうことになる。与えられていた側は、奪っていた側であり、与えられなくなった瞬間、奪われた側になってしまうということ。
立場が逆転するのだ。
悲しいトリックに気づいた瞬間、全てが虚無になる。
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最近、心も身体も無になりつつあった夜。ビールを飲みながら欠けた月を見て思った。今度は私も与える側に回ってみようかな。
やったことない訳ではない。こんな私にも10年来の友人はいるのだから、思い合ってなくては、相思相愛でなくては、その友人たちだっていなくなっていたはずだ。
友人関係なら……の話だが。
今度は恋愛関係で、相思相愛を目指してみようじゃないか。手探りで不慣れでも良い。今まで男から沢山を奪ってきた私が、与えるをやってみようじゃないか。
初めてのこの感情は大事にするべきだと信じたい。
2023年の春、私は心の中にギフトを持って踏み出そう。恋しよう。