何度目かの大学生活が、2年目になる。正確にいうと編入しているわけではないのだが、科目履修生として在籍を続けることにした。
いくつかの通信教育に何度も挫折してきたし、短くはない社会人生活で学歴の壁を感じることもあった。けれど今は自分のコンプレックスの解消のためではなく、純粋に、研究したい、勉強したいという気持ちが強い。そのためなら通信教育も乗り越えられると思っている。

手に職をつけたいと考えた時もあったし、安定した職に就いてほしいという親の期待に応えようともがいた時期もあった。でもそのどれも、自分が本当に楽しくて、ずっとやっていたい、心が躍るものではなかった。

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最近わたしは、体調やいろいろな特性のこともあって、いわゆる“働く“ということをほとんど諦めた。その代わり、勉強をして、それをいつか研究にし、文章や資料として後世に残すことを自分の人生の軸にしようと決めた。

これだけインターネットが普及して、なんでも調べられると思える世界でも、調べてもなにもないものが、この世にはある。それはたとえば言葉だったり、踊りだったり、決まりだったりする。そしてそれはきっかけがなければたぶん他の地方に住むほとんどの人は触れることがなくて、守られず、消えていってしまう。

大規模な博物館で保存されるものでもなく、都市の中で守られることでもなく、地域からいつか記憶のある人もいなくなる。
けれどある時誰かが調べた時に、資料さえあれば「それがあった」ということは残る。それが海外からか、国内からかはわからないけれど、そのままの形でなくてもあったことがわかるのとわからないのとでは大きな差がある。

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思えばわたしはこの10年くらい、寄り道をして、迂回して、自分の進む道を探しながら、ずっとそんなことを考えていたのだと思う。
たくさんのモノが売られて、コトも売られて、どんどんどんどん消費されていく時代に、そんなことを調べて書いて、どうするの?と思う人は多いだろう。

ナニカをしている自分がかわいくて、スマホの中に見られたい自分を構築する。デジタルの世界は、もっと楽しいことがたくさんあるよ、と。でもわたしは無駄ではないと信じている。

どんなにアナログでも、これを、記録を残すことに意味がある。そのきっかけは本当に些細なことで、でもそれがなければ今のわたしはいなくて、その中でわたしは残したいものを見つけた。抽象的だけれど、自分の生きてきた人生の何かひとつでも欠けていたら、今こんなふうに考えることはなかったと思う。

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辛いことの多い人生だった。死にたい時の方が、生きたいと思う時より長かった。それは、今の年齢と同じくらい生きないと覆らない事実だ。今も刹那的になってしまうこともあるし、自分が大好き!人生ハッピー!なんて言えない。

でも、人生の軸を見つけた今は、たとえ揺らいでも戻ることができる気がする。それが勉強や研究になるなんて、死にたかったあの時には、いや、去年の今も想像できなかった。それでもわたしは、これから何年かけてでも卒論を書いて、その先もできれば研究をして、生きているうちには誰にも読まれなくても、それでも構わない。

ただいつか、自分の書いたものが、過去のわたしのようになにか些細な興味で検索をした人の目に止まるといいな、と思う。