「海が見たい」
ふつふつと沸いた思いは、いつしか大きなものになっていた。
昨年の夏から鬱病と闘っている私は、なんとなく社会と隔絶されたような一人暮らしの部屋で毎日を過ごしている。

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ベッドから見上げる白い天井と窓から見える住宅街、買い物に出かけるいつも通りのルートは私を狭い世界に押し込んでいるかのようだった。
私はその狭い世界を、自分から飛び出す勇気はなかった。
そんな時にふと沸いた思いが、「海が見たい」というものだった。

私の故郷には海があった。故郷を懐古する時、決まって海が頭に浮かぶ。
頭に浮かぶその景色は、灰色の空を重く映した暗い藍色の海。
晴れの日の海よりも、空と海との色のコントラストがはっきりと出て、水平線が綺麗に見えるのだ。

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私はその景色が好きだった。
上京してから、最後に海を見たのはいつだっただろうか。
すぐには思い出せないが、思い出せたとて、故郷の海に勝ることはないだろうなと漠然と感じていた。

それでも海が見たかった。
そして他人本位な私は、誰かに連れ出してほしかった。
でもそんな誰かはそう都合よく見つかるものではない。
悶々とした思いを抱えながら日々が過ぎていく。
そんなある日、私は一人の男性と出会うことになる。
その人とは、ある配信アプリで出会い、趣味の話で盛り上がって意気投合し、現実でも会う仲になった。

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彼はよく自分や自分の家族のことを話してくれた。
よくよく聞いてみると、彼も昔鬱病だったという。
今の彼の姿を見ていると、そんな過去があったなんて想像もできないほど元気で優しいので、それを聞いたときは素直にびっくりした。

私も現在闘病中であることを話すと、彼はより私に歩み寄って、真摯に対応してくれた。
この時期に、彼と出会えたことは、本当に運が良かったと思う。
ある日私は、彼に、「海が見たい」と告げてみた。
彼は、自分が闘病していた頃に行ったという海に車で連れて行ってくれた。

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その日は晴れていて、絶好のドライブ日和だった。
突き抜けるような青空と照りすぎともいえる太陽が心地よかった。
海につくまでは、確かに晴れていた。
それなのに、海に着いたら、にわかに空が曇りだした。

車を降りると、身を凛とさせるような潮風にさらされる。
彼と二人でベンチに腰掛けると、目の前いっぱいに大きな海が広がった。
異郷の海は、奇しくも故郷を思い出させた。

全く違う風景なのに、目の前に広がる空と海のコントラストは、水平線の美しさは、私が望んだものだった。その時、私は純粋体験をしたのだと思う。
周りに人がいることも、申し訳ないが隣に彼がいることも忘れて、ただその景色の美しさに浸った。

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そしてしばらくすると、何か貯めていたものが噴き出したかのように涙が出てきた。
泣いている間、彼は黙って私の隣に座っていた。
泣きやむと、今度はずっと黙り込んで、目の前の景色を一生懸命目に焼き付けた。
時がたつのを忘れるほど、とはこのことを言うのだろう、私と彼は2時間以上もそうして海を眺めていた。

途中、彼が煙草を吸うためにジッポの石を何度か擦る音が聞こえたが、潮風に負けて火が付かないようだった。

身体の芯まで冷え切るころ、私たちは帰路に着いた。
すっかり陽が落ちて暗い道を、車が走り抜けていく。
車内では、睡魔を振りほどこうと、二人でしりとりをした。
途中、寄ったパーキングエリアで、あんまんを食べた。
温かくて甘くて、幸せな味がした。

この日1日で、私の鬱が完治するわけではない。
けれども、大切な、大切な1日になったように思う。
彼と出会えたこと、彼が寄り添ってくれる日常があること。
私はとても幸運で幸福な人間だ。