部屋中に広がる、甘くてふんわりとした香り。
ぐつぐつとスープを煮込む音。
香ばしく魚が焼ける、ちょうどよい焦げ色。
むくむくと膨らんでいくケーキ生地。
お皿に盛り付けるときの、ワクワク感。

料理をしている時、自然と心が踊っている。
賃貸アパートの狭いキッチンで、大した家電や道具も使っていないが、私にとっては幸せな時間だ。

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家庭科教師の母をもつ私にとって、小さい頃から料理が身近だった。
母の手作りパンやプリン、手のこんだお弁当、お店の味とはまた違う良さがある唐揚げ。
私の食や料理への興味は、そんな母の料理によって、自然と湧いていったのだと思う。

大学生になり、実家を出て、一人暮らしを始めた。
引っ越し祝いに、母が買ってくれたオーブンレンジ。これを使ってどんな料理やお菓子を作ろうかな、とわくわくした。
日々の記録も兼ねて、料理投稿サイトにレシピや作った料理を投稿するようになった。
本格的でもなければ、見た目も決して豪華ではなかったが、オーブンレンジのおかげもあって、確実にレパートリーは増えていった。
とはいっても、部活や授業でバタバタしていて、料理に時間をかけたくないときもあったため、簡単に、短時間でできるレシピをネットで探して作ることも増えた。それでも毎日、キッチンで料理をした。
大学生になって、家でコンビニのお弁当を食べたことはなかったくらいだ。

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そんな私を、さらなる料理の深みに引きずり込んだのは、「マスター」だった。
大学2年の頃、部活の先輩に紹介され、小さな和食居酒屋(料亭のような雰囲気ではあったが)のバイトを始めることになった。
初日、時間通りにお店に行くと、そのお店の店長が一人で待っていた。先輩曰く、その人は皆からマスターと呼ばれているそうだ。
「んじゃ、とりあえずまかないでも食ってから仕事してくれ」と、早速、お盆に乗り切らないほどのまかないが出てきた。

艶々としたお刺身、きのこがふわっと香る炊き込みご飯、皮がパリッと焼かれた銀鱈の西京漬け、手作りの玉ねぎドレッシングがかかったサラダ、柚子が香るお吸い物、程よい塩気の漬物。
美味しすぎて、ため息がでた。
料理を食べて、ため息がでるなんて思わなかった。
それほど美味しかったし、温かい気持ちになった。

「マスター、まかないめっちゃ美味しかったです!ごちそうさまでした!」
そう言うと、マスターは、
「おう!そりゃよかった!この店のために働いてくれるんだからよ、バイトにうまいメシ食わせてやらなきゃな!」
と、得意げに笑った。
それから毎日、私はバイトに行くのが楽しみで仕方なかった。
今日はマスターのどんな料理が食べられるだろう、とワクワクしながらお店まで原付を走らせた。

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楽しみなのはまかないだけではない。
マスターの料理にはたくさんのファンがいて、お店には毎日のように常連さんたちがくる。
退職してからこの時間が一番の楽しみだ、と足繁く通う方。マスターと野球の話をしながら、美味しいお酒と料理を楽しみに来るご夫婦。社会人になり、スーツを着たバイトのOGの先輩たちも、マスターの料理が食べたかったんですよ、とお店に来る。
そんなお客さんやマスターとの会話、時間が大好きだった。

マスターの料理には、このお店には、人を笑顔にする魔法が、人を引き付ける魔法が、かかっているみたいだ。
それからバイトの日には、まかないの料理には何が入っているのか、どうやって作ったのか、とマスターを質問攻めにし、マスターが料理を作る姿を、洗い物をしながら熱心に見ていた。
学生には少し似合わないスーパーや商店街で、ちょっといい食材を探し、これまで作らなかったような料理も家でたくさん作った。
それらをタッパーに入れてバイトに持っていき、マスターに試食してもらうこともあった。

「お!料理のセンスあるな!」
「次はここに大葉とみりんも入れてみろ!もっとうまくなるぞ!」
そんなやりとりが懐かしいこの頃。
私も社会人になって、学生時代のアパートから引っ越した。

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あいかわらずキッチンは狭いが、あのオーブンレンジや、マスターに教えてもらったレシピが今でも役立っている。
美味しい、新しいレシピにもたくさん挑戦したくて、レシピを検索しては、あれではないこれではないと、検索ページを永遠とスクロールしている。
「時短!」「材料3つ!」「レンチンでできる!」
そんな文字が並ぶレシピはたくさんあるが、私が探しているのはそれではない。
私は、マスターの料理のような、温かい気持ちにしてくれる料理を、何時間かかってもいいから作りたいのだ。
私も、手のこんだ料理を大切な人に食べて欲しいのだ。

仕事を早く終わらせて、キッチンに立つ時間。
休日に何も予定を入れずに、材料の買い物と料理をする時間。
この心躍る時間は、誰にも邪魔されたくない。