私はこの4月で30歳になる。
この私が、30だなんて。信じられない。
この間までサンタさんは来ていたし、初めてファーストキスをしたのも受験をしたのも、初めてお酒を飲んだのも、つい最近のことなのに。

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信じられない気持ちでいっぱいだが、私はもうすぐ30になるのだ。
ずっと「若くて良いね」「人生これからだね」と言われていたのに、すぐ後ろを振り返れば同じことをもっと若い人たちが言われているのが見える。
周りを見渡せば、結婚して、子供を産んで、出世して、夢を叶えて、若い人たちに「あなたみたいになりたいです!」って言われたりして「いやいや」とはにかんだりしている同世代が見える。
私はどうだ。
私だけ、ずっと子供のままだ。
何かを大成したことなんて無く、会社では変わらず平社員で、妊娠は未だにしちゃいけないことだと思っているような、なんともお粗末な頭のままだ。
人に誇れることなんて、若い人に教えられることなんて、何一つない。
ましてや、子供を産んで育てるなんて、とんでもない。
私が誰かを正しく導くことなんて出来るわけがない。

だけど、こんな私でも、一つだけ人に誇れることがある。
失敗の多さだ。
今まで、沢山失敗してきたし、今も失敗し続けている。
思い通りにいくことなんて無く、満足して満ち足りた気分になんて、なったことも無いしこれからもなる予定は無い。
一生分の幸せを味わったような日の次の瞬間には奈落の底に突き落とされたことだってある。
それは、私が失敗の数だけ挑戦してきた、ということと同義だ。
私は挑戦し、失敗してきたのだ。
そして、今も。それでも、私は立派に生きている。
もし、人に誇れることがあるとするならば、これだ、と思う。
100万回挑戦して、100万回失敗して、そこから学んで、今堂々と生きてる、ってことだ。
そして、これからも。

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世間には結果ばかりが溢れている。
「色々あったけど出世しました」「色々あったけど、高給取りのイケメンと結婚出来て幸せです」
今、どれだけ幸せかを、人は発信したがる。
でも、最も価値があるのは、結果ではなく過程では無いのだろうか?
どのように苦悩し、どのような気持ちで、なぜ立ち止まったのか、など、そこが宝の山なのではないだろうか。
成功、というのがいまいちどのようなものだか、約30年生きても分からない次第だが、もし失敗の上に成功があるのであれば、私は今、その宝の山を生み出し続けている最中だということではないだろうか。
私は若い人に、少しだけ長く生きた人類として、共有出来ることがあるとするなれば、その失敗そのものだ。
そして、失敗しても、こうして普通に生きてる、ってことだ。
その失敗を見て、「私も失敗したけど、これに比べたら大したこと無い」って立ち上がる力になれるかもしれない。
「この人みたいな思いはしたくないから避けて通ろう」って警笛を鳴らすこともできるかもしれない。

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私の失敗は決して無駄じゃない。
私を強くたくましく育て上げたと同時に、他人をも勇気づけるポテンシャルがある宝なんじゃないかと私は自分で評価したいのだ。
なぜなら、私もそうして、私より長く生きた他人の失敗から、沢山を学ばせて頂いてきたから。今度はその役割を私が担う時なのかもしれない。
そして、私も若い人を含め、他人様から様々を学ばせて頂こうと思う。
これからもコケたりつまづいたりしながら、失敗を他人様と共有しあって、ああでもないこうでもないと、好きなだけ苦悩しながら、人生を楽しんでいける自分でありたいと思う。