いまこのエッセイを書いている今日、私は無事30歳の誕生日を迎えることができた。なんともホワイトな職に就き、ホワイトな部署に配属になった私は学生時代を札幌で過ごした以外はずっと実家に留まっている。あまり地元が好きでなかった未成年の私からは考えられない選択である。

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私は元々地元が好きでなかった。小、中学校の9年間いじめに遭い、愛着はまるでなく寧ろ学校全体を恨んでいた。その影響もあって学校の負の側面を実証する教育社会学に関心を持ち、体罰や校内事故が起こるたびに学校に対して「責任とれ」というような感情を抱いた。一方、高校受験や県大会など栃木県といった枠組みを意識する機会はあり、県庁や県教委といった県内で働くこともいいと思った。寧ろ、教員になったら学校で起こるいろいろなリスクについて知ることができるのではないかと、持ってはいけないような学術的関心すら抱いた。

そしてもう一つ、私が学校に関心を持ったのは深い訳があった。周囲のクラスメイトは誰も私に話しかけることはなくいつも孤立していた。中学生として知りたい情報が一切入らず、唯一知る方法と言えば周囲の会話をひっそりと聞くことであった。しかし、一人の女子生徒が、
「話を勝手に聞いている」
と指摘したことによって周囲がそれに便乗し、次第に私の前では会話すら繰り広げなくなった。本来送ることができたはずの青春をクラスメイトと共有することはなく、そんな枯渇した人間関係が私の学校に関する興味、関心を強く引き出すきっかけとなった。

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しかし、当初はこの興味、関心が余計に心苦しかった。これが学業として成立するか分からず、なんて無意味なものに関心を抱いているのだろうと思っていた。興味のあることは忘れず、いわゆるクラスの思い出は誰よりも鮮明に覚えているが、この記憶が受験に結びつくものとなればどんなに良いだろうと思った。

誰も話し相手がいなかったことからよく学校に置いてある資料を眺めていたが、これが後に教育学への関心を強めるものとなった。ちょうどこの頃都会のエリートに憧れを抱き、名門校のHPや中学受験の雑誌、2チャンネルを閲覧するようになった。

高校生になってからは相変わらず親しくする人はいなかったが、私の顔を知らない他校の生徒の前略プロフを閲覧することにはまり、その高校の生徒を何十人も覚えては高校の実態を把握することを楽しんだ。大して関心のない生徒であるにもかかわらず前略プロフのサービスが終了するまで1年以上もの期間をネットストーカーしていた。それほど人間関係に枯渇していたのだ。

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こうした関心が学業として成立することを知ったのは、大学生になってからだった。大学での勉強だけでは物足りずにNPO法人での学習支援ボランティアや教員、教育ジャーナリストへのインタビューも行った。

新たな発見をするという目標のため、大学院へと進学した。勉強好きの私の周囲は富裕層出身者が多く中高一貫校出身であることが当たり前のように会話が進んでいき、そう思われたことに喜びを感じつつも公立中学出身であることを隠すのに必死であった。一方、教育社会学を学ぶ上で得られる知見と言えば貧困層家庭出身者に関することが多く、学びを深めるほどに自身の置かれた環境に感謝する機会が増えていった。
奨学金なしで27歳まで学生でいられたことがどれだけ恵まれていたのか、自分の希望する場所で働けていることがどれほど幸せなのか、このことを実感することができたのは、田舎に生まれ公立中学に進学し、高等教育機関で大学院まで進学することができたからではないだろうか。もし生まれ育った場所が都会のタワーマンションなら、入学したのが私学の初等科なら、私はこうして現在自分の置かれた状況に感謝することもなければ、深く考えることもなかっただろう。恵まれた環境が当たり前の中では自身の境遇に感謝することはできないし、心の余裕も生まれない。小中9年間周囲のクラスメイトと馴染めず苦労をしたが、今感謝や幸せを感じることができているのは、こうして教育に関心を持てているのは、公立中学校出身だからではないか。今の私を作ったのは、まさに田舎の公立中学校という環境だった。

そうした環境で子育てをしてくれた両親に感謝をしたい。