母からは「あんたは窮地に立つと、いつも棚からぼたもちが落ちてくる人生を送ってきて、努力してるところなんか見たことない」と言われます。思い返せばその通りで、嫌なことを避けて逃げている間にぼたもちが落ちてきて好転し、最終的には結果オーライになる人生だったなと思います。

私はあらゆる「学校」と呼ばれる場所は好きではありませんでした。小学1、2年生のときは毎朝泣いて喚いて暴れて、どうにかして家周辺から離れないように画策していました。幼稚園生の頃は母が園まで送ってくれ、泣きじゃくる私を先生に引き渡していたので私の力ではどうすることもできずに毎日登園させられていましたが、小学校に入学してからは自力で玄関を出て、歩いて登校しなければなりません。なぜだか自宅から物理的に離れることに恐怖を覚えていた私は毎日が絶望と不安でしかありませんでした。

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私の小学校では1年生から6年生まで縦割りの「なかよしグループ」と呼ばれるものが組織され、遠足やお昼休み、毎日のお掃除はそのグループで過ごさなければなりません。

そこで出会ったのがみほちゃんという6年生のお姉さんでした。みほちゃんは私のグループのリーダーで、毎日泣いて、人見知り問題児の私の世話役を担当してくれました。毎日のお昼休みや清掃の時間の前には教室まで迎えに来てくれたり、運動が苦手な私に合わせてドロケイや鬼ごっこは一緒に逃げてくれたり、今思ってもなぜあんなにもよく面倒をみてくれたのだろうと不思議に思うほど、仲良くしてくれました。

偶然家の方向が同じだった私たちは下校時間が合うときは一緒に帰ることもあり、その中でみほちゃんは毎週木曜日に書道を習っていることを知りました。書道というものが何なのかよく分からないままに、母に私も習いたいとお願いし、みほちゃんと同じ書道教室に通わせてもらうようになりました。

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書道そのものへの興味よりも、学校外でもみほちゃんに会いたいと思う不純な動機が半分、憧れのみほちゃんのようにきれいな字を書けるようになりたいという気持ち半分で始めた書道でしたが、中学3年生まで続きました。教室を辞めるときには段まで取ることができ、私が最初に取得した履歴書にかける資格でもありました。幸いにも、私は書道のお稽古が苦手ではなかったようで、毎年展覧会では入賞していましたし、中学校にあがると私の作品を飾りたいと依頼があり、校長室や応接室に作品を提供するまでになりました。

高校受験では、あまり勉強ができない私は面接で書道について話し、おそらく受賞歴で合格したようなものだと思っています。完全にラッキーでした。社会人2年目のときに転職を試みた際、海外で働こうと就職試験を受けたときに面接官が「書道ができるなら、日本紹介イベントとかで披露できるね」と言ってくれ、好印象を抱いてくれていたのではないかと思っています。その試験も無事に合格し、書道セットと一緒に憧れだった海外生活を叶えることができました。
その後、日本に帰国し青少年教育関係の団体に就職しました。それは私にとっては非常に大きなチャレンジでしたが就職試験に合格できたのは、海外での就労経験があったからなのではないかと思っています。そこでも書道の経験が活かされ、書道を通して日本文化に触れるための教育イベントの担当することができました。

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「人生で一番つらかった時代はいつですか?」と聞かれたら、小学1年生のときだと答えるでしょう。大人になった今なら学校なんて行かなくても大丈夫、と思えますが、当時6歳の私には学校が全てでしかないのです。毎日、登校するのが嫌で嫌で仕方なかった私を救ってくれたみほちゃんと書道との出会いが、その後の人生にこんなにも大きく影響を与えているとはきっとみほちゃんは想像もしていないでしょう。自分でも他力本願でラッキーな人生であると思っていますが、これからもみほちゃんが最初に落としてくれたぼたもちを大切にし、ぼたもちが落ち続けてくれる人生であってほしいと願っています。