人に対して「ビビッと来た」とか、そういうのあまりよくわからないのだけれど、唯一「ビビッと来た」かもしれない、と思った瞬間がある。
  今から5、6年前。19歳くらいのとき、ホテルのクロークでアルバイトをしていたときのことだ。

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ホテルに直接雇われていたわけではなく、イベント会社のようなところに登録していて、そこから派遣されていた。
たしか3月の中旬で、私が配置されていた宴会場では、大学の謝恩会が開かれていた。

私がこの現場で任されていた仕事は、やって来たお客さんからコートやカバンを預かって番号札をつけ、お客さんにそれと同じ番号の札を渡し、そのままその荷物を奥の置き場へと運ぶ。そして会が終わったら、お客さんから番号札を預かり、同じ番号の荷物を探してきて、返す。という、非常に単純なものだった。

謝恩会の開始が近づくと、会場の前はドレスやスーツを身に纏った卒業生と思われる人達で賑わった。教員と思わしき人もいたけれど、大多数が学生らしき若者だった。

次第に忙しくなってきて、私含め10人程度のアルバイター達は、カウンターと荷物置き場をひたすら行き来していた。

ひっきりなしに預けられる荷物。段々置き場も埋まってきた頃、「ビビッと来る」ことが起こった。
学生らしき男性から預けられたコートから、とんでもなく良い匂いがしたのだ。これまで嗅いだことがないような、良い匂い。それは香水とかの類いとは違っていて、恐らく体臭で、けれど非常に心地が良いものだった。

けれどまあ、だからどうということもない。良い匂いだなぁと思いつつ荷物を置き、持ち場に戻って仕事を続けた。

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謝恩会が開始されると、客足はなくなり、派遣の私たちは別の人手が要る会場に呼び出された。

そして会が終了すると、再び同じ会場のクロークへに呼び戻される。荷物を返す作業が始まるためだ。今度はお客さんから番号札を返してもらい、その番号の荷物を探し、返却する、という動作を繰り返した。

そのなかで、例の良い匂いのコートの持ち主がやって来た。クロークには私と同じ係の人間が8人ほどいたのだが、帰りも偶然私のところにあたったのだ。
やはり良い匂いだなぁ、と思いながら、コートと荷物を彼に返した。

 彼は、荷物のうちの一つを置き忘れてカウンターを去ろうとした。謝恩会のなかで配られたと思われるクッキーだった。

「お荷物お忘れですよ!」
私が呼びかけると、彼は言った。

「いえ、お姉さんに」
えっ……。

一瞬、何が起きたか分からなくて、次に「勤務中に貰って良いんだっけ……?」という疑問が巡った。考えている間に彼は去って行ってしまい、お礼を言うことが出来なかった。

貰ったクッキーは、帰りの地下鉄を待っているときに一緒に働いていた友達と食べた。これは別に彼の成果ではないだろうが、めちゃくちゃ美味しいクッキーだった。

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あれから5、6年経ったけれど、あの人を超える好みの体臭に出会ったことはない。カウンターの女の子にクッキーを贈るテキトーなキザ加減も、なかなか好みだ。ついでに言うと、預かったコートのデザインも結構好きだった。
運命だったんじゃ、なんて冗談半分に思ったりもするけれど、当然あれっきりなので、繋がりようが無い。

が、実は私は、手がかりを持っている。
それは、下の名前だ。

彼は私にクッキーを贈った少し後、クロークのそばに戻ってきて、教授らしき人物と話していた。そのなかで、自分の名前を名乗ったのだ。少し珍しい名前だったから、今でも覚えている。ただ、人がいっぱいいてガヤガヤしていたから、上の名前は聞き取れなかった。

ちなみに言うと、この会が謝恩会だったおかげで、大学名と卒業年度も把握できている。大学名+聞き取れた下の名前で検索してみたことはあるが、それらしき人物は出てこなかった。
フルネームさえ把握出来れば、彼の情報に辿り着ける可能性はぐっと上がるんじゃないかと思うのだが……。

まあ、辿り着けたところで何が出来るわけでもない。私には今現在、煮詰まった関係性になってしまってはいるが、彼氏がいる。それに私は、見知らぬ人にいきなりメッセージを送れるほどアクティブな精神は持ち合わせていない。年代から考えても、相手は既に結婚している可能性もある。というか、そもそも顔も覚えていないから、どこかで偶然すれ違ったりしても気がつくことが出来ない。

だからこそ。きっと永遠に繋がらないと思わしき相手だからこそ、アホな空想をしてしまうのだ。
「もしかしたらあの人が運命の相手だったりして」、なんて。