心の平穏を保つため、人は皆、それぞれ安全地帯を持っている。自室かもしれないし、図書館やカラオケ、公園かもしれない。人それぞれ、そこに行けば心が守られる、砦のような場所。
私にとって、キッチンは砦だ。
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悲しいときは、野菜を刻む。無心に、ざくざく荒みじん切りを量産していく。そしてできたたまねぎやにんじん、きゃべつなどの山は、適当にコンソメで煮てスープにする。くたくたになった野菜と、そこから出たじんわりとした甘みを感じるスープ。心に寄り添う優しい味がする。
怒っているときは、甘いものを作る。小麦粉と砂糖を混ぜて、あとは気分で。ホットケーキかスコーンにすることが多い。割と適当にしても、美味しくできるので。生地を焼くと、漂う甘い香り。少し心が和らぐ。シロップやジャムをとろりとかけて、できたて熱々を頬張ると、怒りはどこかへ行っている。
疲れているときは、お米を炊く。ざらざらお米を研いだら、あとは炊飯器にお任せ。炊き上がるまでのおおよそ1時間で、ご飯のお供を用意する。冷蔵庫にあるものを眺めて、簡単にできそうなものを。塩さばを焼いても良いし、しょうがの効いたそぼろを作っても良い。いつも常備してある、しっかりすっぱい梅干しやちょっとお高いふりかけもお手軽だ。ほかほかごはんを山盛りに、思う存分食べれば、ちょっと元気になる。
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何もできないときもある。茫然自失。流し台を背に座り込む。嫌だ、辛いとそればかり。でも、10分もそうしていれば不思議と身体が動くようになる。最初は緩慢に、とりあえず手の届く戸棚を開けてみる。すると、自分好みの調理器具や保存容器が並んでいるのが目に入る。結構こだわって揃えて、毎日のように使っているお気に入りたち。
今日はこれを使って料理をしよう。そう考えた瞬間、普通に動けるようになる。
例えば、ハンディブレンダーを使っての、ポタージュスープ。玉ねぎとじゃがいもを切る。それをコンソメで煮込むと良い香り。おたまでかき混ぜると、より一層立ち上る。満を持してブレンダー登場、一気にとろとろに。牛乳で伸ばして、ちょっぴりお味見。
食卓に並べ、いただきます。子どもがおかわりをするたび、私はテーブルとコンロの鍋との間を行ったり来たりする。家族に美味しいと言ってもらえると、とても嬉しい。
気分がよくてもキッチンへ。手の込んだレシピに挑戦するのは、そういうとき。筋取りや下茹でといった面倒な作業でさえも楽しい。我が家はカウンターキッチンなので、手を動かしながらリビングで遊ぶ子どもを眺められるのも良い。
あるいは、子どもと一緒に何かを作ることも。どれだけ3歳児に散らかされても、笑って過ごすことができる。出来栄えが少々不恰好になっても、味は格別だ。
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こうして振り返ると、かなりの時間をキッチンで過ごしていると感じる。日々の家事のためのみならず、心の調子をも整える、大切な場所。これから死ぬまで、ずっとそうあり続けるであろう場所。
今日はちょっと疲れているから、ごはんを炊いて、豚肉と玉ねぎで生姜焼きだけ作ろう。