睡眠と仲が悪いと気が付いたのはいつのことだったか。物心ついたときからというのはどうも話を盛っている気がしてしまうが、ではいつからかといえば、それがあやふやで仕様がない。中学のころは確かすでにそうだった、そのような具合だった。不登校もいよいよ本格極まりつつあったとき、私は夜ひたすら自室でテレビをつけて、それを眺め、時間が過ぎるのをうずくまって待つばかりだった。深夜特有の下衆で愉快な番組が終わると朝のニュースになり、6時7時とさらに見ていると、いつの間にか大抵のニュースは頭に入っていた。そして朝を迎えていた。

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夜はなんだか眠るものらしい。そういう時間らしい。母も教師も医師も口を揃えて言う、朝は起きた方がよいと。つまりはそれは、夜は寝た方がよいということと同義ではなかろうか?それはそう、という心持ちで今これをしたためている。

軽い不眠や過眠を携えて生きてきて、今年の秋で24歳。夜眠れなくても構わない、と思えるようになったことを、ここに記しておく。誰かの救いになれば幸いである。

過眠はしばらく縁遠い所にいるのでなんとも言えないが、不眠はおよそ離れることのないそれである。入眠に1時間費やすことは珍しくないし、中途覚醒しない日は激レアである。目を閉じて開かないことを意識し、睡眠に集中できるよう面白そうな考えごとを頭にうかべておく、また空白を作るようにもする。巷の皆々さま方はどのように眠りに容易に落ちるのだろう?疑問は尽きない。

しかしながら、布団の中でいつたどり着くかもわからないゴールを見つめながら固まっているのは、苦行である。暇、暇、暇…。それならば起きてしまえばいいのでは、などと思い至ったのは、ここ1年くらいのことだろうか。どうだろう?

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眠れなくても午前中に起き出せればいい、それでいいことにしよう。そんなミラクルにふと接触した私は、毎日ではないが、時折むくりと起き出しては机に問題集とノートをひろげたり、あるいは読みさしを持ち出したりして夜ふけの静の感触に触れて楽しむようになった。

夜というのは常々綺麗だ。

まず空の色が美しい。青でも灰でもない色があって、濃紺に群青を合わせて白い靄を被せたようなそれを改めて目にしてみると、意外にもその色合いは言葉として形容しづらいような面であることに気付かされ、続いてそれからは森羅万象を言葉にする必要はないということに気付かされる。
続いて空気が美しい。空気という言葉がどこか単純で軽々しいイメージがあるような気がして、大気とか、アトモスフィアとか、それらしさを多分に含み過剰でないよう気を付けた装飾に包ませたくなる。

星と月より金星が美しく思う。金星というのは別名を明星、それも明けの明星、宵の明星とし、月のそばに見えたりなどする。天体のことに造詣は一切深くないが、それだからこそ、金星のことがとりわけ愛おしくなれる。

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美しさはなにも静けさと同義とは限らない。我が家は関東のやや田舎にあり、近くを国道が走っているものだから、よくバイクがぶんぶん走る音が聞こえる。彼ら彼女らはいつ寝るのかなとか、バイクの熱はどれ程なのかなとか、考えることが多い。けれども夜はそれすらもまとめてあおぐろにととぷとぷと落とし込むのだ。

ひと晩眠れなくても死なないから大丈夫だ、などとは口が裂けても言えない。眠れずに過ごす日中は睡眠に悩む人間ほどしんどいように思える気がするし、そもそもそういう人間は疲労云々よりも、まともに睡眠という行為がこなせない自分自身が嫌になってしまったりすることの方が多いのではなかろうか。

だから私はこう思う。夜眠れないのではない、夜を過ごしているのだと思おう、と。考えてみればそうである、朝寝ている人もあれば昼寝ている人もある、それは寝坊であったり午睡であったりする。うっかり寝ていたり好きに寝ていたりする。それならば、そのように夜を過ごしていてもいいだろう、と。うっかり起きていたり、好きに起きていたりしてもいいだろう、と。

夜は日中と異なり多くのことを受け入れてくれる。受け入れてやれないのは私たちの方ではなかろうか。別段、それに申し訳なさを感じる必要など毛頭ない。ただひたすらに、空とか空気とか、星とか月とか金星とか、それらに私たちの元気に過ごす様をたまには見せてやって、仲良くすればいいだけである。彼らも私たちも、元は宇宙にあるひとつだったのだから。