病室の壁といえば白一色のイメージだったが、意外とそうでもないらしい。
明度の低いベージュを見ると、何となく安心する。まぶしい白は無機質で冷たく、大量の書類や資料を想起させるのであまり好きではない。

就職して半年。わたしは仕事のプレッシャーと過労に押しつぶされ、うつ状態と診断された。

診断当日に決まった、1週間の入院療養。精密検査やカウンセリングを行うからと説明されたが、実際は自傷行為や自殺を防ぐためなのだろうな、とぼんやり考えていた。

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病室は2人部屋であった。窓の近くのベッドに先客がいて、扉に近い方がわたし。ベッドの周囲は薄い緑のカーテンで覆われている。
先客は30代の女性らしい。入院初日に声をかけたが、返事はなかった。カーテンはぴったり閉まって、外界を遮断しているように思えた。

2日目の昼、自分の叫び声で目が覚めた。うたた寝をしていたようだ。
追手から必死に逃れて崖から落ちるという、絵に描いたような悪夢だった。追手がパワハラ上司だったことも相まって気分は最低だ。
「どうしたの? 大丈夫ですか」

窓際のベッドから、ハスキーな柔らかい声が聞こえた。今日は隣人が起きているようだ。汗びっしょりの寝起き顔をあまり見られたくないので、カーテンは開けない。
「すみません、変な夢を見ただけです。うるさかったですよね」
「いいえ平気よ。ジャガイモのおしゃべりよりマシだわ」
「ジャガイモ?」
つい聞き返す。看護師にそんなあだ名を付けているのだろうか。一歩間違えれば悪口ではないか。

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姿の見えない隣人は、夢見心地のように、歌うように話しかけてくる。
「年下の女性の方が入っていらっしゃるってニンジンから聞いたけど、あなたね。はじめまして」
上品な言葉遣いとゆったりした物腰に反して、お茶目にも看護師に野菜の名前をつけているらしい。ここはお姉さんと呼ばせていただこう。
「23歳です。はじめまして、お姉さん」
一通り、自己紹介と身の上話をした。お姉さんは2年前に流産と離婚のダブルパンチに合い、心が弱ってしまったらしい。壮絶な過去をあまりに淡々と話すので、逆に反応に困ってしまう。
「入院している間に同室の人が数回入れ替わったけど、皆何かしら苦労して生きているのよね。あなたも、夢破れてひと休みってとこでしょ」
頭がずきりと痛む。とっさに返事ができなかった。
過労で押しつぶされたわたしに、夢破れてという表現は適切か。もともと夢なんか持っていなかったのではないか。新しい夢を探すべきなのか。これが自分の夢だと、自信に満ちて言うことができるか。
中途半端に大人になったわたしたちは、どうやって夢を見つければいいのだろうか。

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「お姉さんの夢は何ですか」
すがるような気持ちで問いかけた。答えを期待しているわけではない。
「入り口をご覧なさい。お魚が泳いでいるでしょう」
お姉さんの言っている意味がよく分からなかった。カーテンを半分開けると、病室の扉が目に入る。

電気スイッチの上に、魚のモビールが吊り下げられていた。風が吹くと揺れたり回ったりするやつだ。水玉模様と縞模様と無地がそれぞれ2匹ずつ。
「入院のとき、家から持ってきたの。私の夢は、あの魚と一緒に退院すること」彼女が言う。
「そのために毎日、息を送って動かしているのよ。ふうーって」

本当に何を言っているのだろうか。
カーテンの上部はメッシュだから、ベッドから魚のモビールは見えるのだろう。ただ、窓際の彼女のベッドから病室の扉までは少なく見積もっても6メートルはあり、魚まで息が届くはずがない。

「魚は動いていないと死んでしまうでしょう。だからね」
「お姉さんは毎日、そうやって息を吹きかけているんですか」わたしは尋ねた。
「そうよ。ほら今も動いたでしょ、右の一匹がこっちを向いたわ」

当たり前であるが、彼女の言葉に反して、魚のモビールは静止したままだ。わたしはそう言おうとしたが、ぐっと飲み込んだ。
お姉さんは自分の力で魚を動かしていると思い込んでいる。それは重要な日課で、自らの気分を良好に保ち続けるための手段だ。わざわざ否定しても何の得にもならない。

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はっとした。夢だって元来そういうものなのだ。ちょっとしたきっかけで、勝手に持って宣言するだけでよいものだ。
夢の規模や正確性、実現性はいったん横に置いて、それを叶えたいと切望することが生きる力につながる。
「お姉さん、なんかわたし、ちゃんと夢に向き合える気がしてきました。ありがとうございます」
良かったわ、と声が聞こえる。
「お姉さんは退院したら、お魚を部屋に飾るんですか?」
「食べるのよ、当たり前でしょ。私はお刺身が好きなの」
わたしは笑った。入院中、こんなに明るい気持ちになるとは予想していなかった。

1週間の間、お姉さんと色々な話をした。彼女は絶対にわたしのベッド側のカーテンを開けなかったので、結局顔を見ないままだった。
退院の日、相変わらず柔らかい声で「お大事に」と声をかけてくれた。続いて、ふうっという吐息が聞こえる。6匹の魚のモビールは相変わらず動かない。
わたしは戸口を出る直前、水玉模様の魚を人差し指でつつき、向きを変えた。