一目惚れをしたことはないけれど、一耳惚れの経験なら何度かある。
初めての一耳惚れは、中学1年生の時。給食の時間の校内放送で流れていた曲だ。
普段なら右から左へすうっと通り抜けていくところなのに、この時ばかりは耳がぴんと反応した。コッペパンをかじりながら、スピーカーから響いてくるフレーズを必死でインプットした。
家に帰るなり、2階にある父の部屋に駆け込んだ。頭の中にインプットした歌詞の欠片を、Yahooの検索窓に放り込む。小学生に毛が生えたような当時の私は、まだ携帯電話を持っていなかった。父の部屋に鎮座しているデスクトップパソコンが、知らない世界を垣間見ることのできる唯一の扉だった。父が仕事でいない時、よく私はパソコンをこっそり拝借していた。
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給食の時間に一耳惚れをして以来、パソコンの拝借頻度が増えた。曲名もアーティスト名もしっかり認識した私は、芋づる式に他の曲もYouTubeで聴くようになった。聴けば聴くほど、彼らの音楽に取り憑かれていった。
とはいえ、YouTubeではミュージックビデオがアップされている曲しか聴けない。なけなしのお小遣いをつぎ込み、シングルCDやアルバムも集めるようになった。部屋の壁は、CDの購入特典でもらえるポスターで埋めつくされていった。
当時のことは今でも鮮明に思い出せる。もう15年も前の出来事だという事実に、何だか時空の歪みを感じてしまいそうだ。思春期真っ只中の田舎中学生だった私も、あまり信じたくはないが今やご立派なアラサーなのだから。
彼らの音楽を聴く機会はめっきり減ってしまったものの、先日、たまたま例の一耳惚れソングが話題に上がり、久しぶりにYouTubeで聴いてみた。
驚いたのが、自然と歌詞を口ずさめたことだ。何度も何度も聴いてきた曲だからか、わざわざ古い記憶を呼び起こさずとも、耳にも唇にもそのフレーズが染み付いていたようだった。
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音楽には、計り知れないパワーが宿っていると思う。
私の青春時代は、音楽と共にあった。
例の一耳惚れソングは、flumpoolの「Over the rain〜ひかりの橋〜」という曲なのだが、彼らをきっかけとして、その後私は音楽の海に浸かっていくことになる。
WEAVERの「トキドキセカイ」、
SEKAI NO OWARIの「スターライトパレード」、
[Alexandros](当時は[Champagne])の「Waitress,Waitress!」、
サカナクションの「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」、
Czecho No Republicの「Festival」、
KEYTALKの「太陽系リフレイン」、
パスピエの「S.S」、
QOOLANDの「熊とフナムシ」…
すべて、歴代の一耳惚れソングたちだ。
Youtubeのおすすめ機能というものは、今風に言うととても「シゴデキ」だと思う。「あなたはよくあの曲を聴いているみたいだけど、それならきっとこの曲も好きだよ」と的確に勧めてくれる。
ジャンルで言うところのいわゆる邦楽ロック界隈にハマった私は、ROCKIN’ON JAPAN、MUSICA、音楽と人などの音楽誌も読みあさるようになった。高校生の頃は、乗り換えの駅構内にある本屋でしょっちゅう立ち読みをしていた。また、単に曲をイヤホン越しに聴くだけでなく、ライブやフェスなどのイベントにも足を運んだりもした。
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一耳惚れした音楽たちは私の手を取り、たくさんの知らない場所へ連れて行ってくれた。そこには、いつだって色とりどりの景色が広がっていた。
時には心に寄り添い、慰めてくれることもあった。背中をそっと押してくれることもあった。気分をブチ上げてくれることももちろんあった。
こうやって書いていたら無性に懐かしい気持ちがこみ上げてきて、前述の一耳惚れソングたちを順にYouTubeで聴いてみた。
音楽には大きなパワーが宿っていると感じる理由は、いつ聴いても鮮度が保たれたままだからだ。当時の記憶や心情が、ありありと蘇ってくる。あの頃の私と今の私は地続きなのだと、1本の線が瞼の裏に浮かび上がってくるような気すらする。
その線の上を、私は確かに歩き続けることができている。立ち止まったり、しゃがみ込んだりしたこともあったけれど、それでもここまで生きられた。
多感だった時期に、たくさんの音楽と出会えてよかったと心から思う。
自分にとっては黒歴史のような学生時代だったけれど、きっと悪いことばかりというわけでもなかった。今なら、素直にそう思える。
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ここ最近は、昔のように音楽にあまりアンテナを立てなくなってしまった。推しであるアイドルの曲や、観た映画やドラマの主題歌くらいしか聴かない。
きっと、自分が知らないだけで、また耳がぴんと反応する音楽がこの世界にはあふれているはずだ。
すっかりご無沙汰の、一耳惚れしたときのあの感覚。
困ったな、何だか妙に恋しくなってきてしまった。
ならば、耳と心が同時にときめく感覚を求めて、また広い広い海へと漕ぎ出してみようか。