私の中には悪い私が棲んでいる。
他人の揚げ足を取るような、悪いところばかりを探す私が。

誰でもないものねだりはある。
自分にないもの、自分には巡ってこないチャンス、自分では買えないもの。
もっと手元にスポットライトを当ててみれば、自分ができることやできていることのほうが圧倒的に多いはずなのに。

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学生の頃、友だちづきあいがとても苦手だった。今でも連絡を取る友だちは片手で足りるくらいだ。必要な時以外、話しかけることはしなかった私。それでいいと思いながらも、教室の片隅でワイワイと盛り上がっている女子グループの話の中に入りたいという願望もあった。
自分では決して入れない。入ったところで話がわからない。それがわかりきっていたから、私は一歩を踏み出さなかった。代わりに、うるさい、何を根拠のない話をしているのだ、と心のなかで蔑んだ。

女子グループの子たちよりも少しばかり成績が良かった私は、勉強にはワイワイとする必要はない、と言い聞かせて自分を正当化した。

彼女たちを下に見て、自分とは違うと勝手に差別化をした。当然ながら、負のスパイラルに陥る。横目で見ることも増え、心の中の蔑みはさらに積み上がっていくばかり。きっと彼女たちからすれば、普通に話しかけてくれればいいのに、と思っているのだろう。それでも入れない私の気持ちなど考えもしないで、と当時の私は言うに違いない。

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学生生活は楽しんだもの勝ちだ。おとなになった今はそれがわかるけれど、当時は楽しむ方法がまったくわからなかった。何をすれば彼女たちのように楽しめるのだろうか。学園ドラマのような親友が見つかり、クラスに居場所を見つけられるのだろうか。学生時代の私は、常にどこか俯瞰して自分を見ていることが多かった。視点だけが空間に浮遊しているかのような感覚。地に足をついて生きていけない感覚が、悪い私をさらに大きくさせた。

おとなになっても、悪い私は消えなかった。

社会に出るとコミュニケーションの幅が広がる。仕事をする上でコミュニケーションは欠かせないものにもなる。必要なこと以外人と話して来なかった私は、仕事で必要な報連相をするだけでも苦労した。間違っていると指摘される怖さもあり、うまく伝えられない。簡潔にまとめて伝えられ、的確なアドバイスをもらい、どんどん仕事をしていく同期に負い目を感じる日々。次は遠くから先を行く同期たちの背中を見るようになった。たまにミスをしたときや、自分でも答えが出そうな悩みを抱えているときは、嬉しくなった。人間らしさを感じたのではない。あんなに先を行っていた同期が、私の手の届くところへ落ちてきたのだ、という感情。ここぞ、とばかりにやいのやいの言う野次馬と同じくらい低俗な私がそこにいた。

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悪い女。悪い私。

常に身近な誰かの揚げ足を取ろうとしてしまう自分。何も起こらないのに、誰も得をしないのに、常に人を貶めようと目を凝らしている。特に子どもの頃はひどかった。学生生活は負の感情で支配されているといえるほど暗かった。おとなになって少しはマシになったかもしれないが、気を抜くとすぐに悪い私はやってくる。自分ができないこと、足りないことは棚に上げて、相手を罵るネタを探す。自分でも最低だと思う。

直したいと思っても直せない。ひとたび負のスパイラルが始まると、なかなか抜け出せない。加速車線でアクセルを踏んだときのように、どんどん落ちる速度は増していく。捕まることができるストッパーはしばらくない。

直したい私の悪いところ。けれどまだ当分直りそうにない。自分が情けないと思う日はあるけれど、向き合っていくしかないのだろうな、と覚悟を決めるべきなのだろうか。
できるだけ悪い私は出したくない。出してもいいことはなく、なにも生まれない。今のままでいいと思える、悪い私も個性だと思える器を持てるその日まで、もうしばらく悪い私は消えないだろう。まだまだ悪い私は、自分がやっかいものだと気づいていないらしい。