喉元を過ぎた茶はいつだって甘いと思う。どんな記憶も時間もいつかは過去のものとなり、こうしている今だって、私は、私たちは、いややっぱり私は、厚ぼったい命の塊をすりすり削りながら、その輝くおがくずの山の上に座っている。

この命はどこまで続くのだろう?どこまでだって続くように思える。死にたくなるほどつらいことを経験してもなお、苦虫を煮詰めたような茶を飲み干したあとの口内に残る甘ったるさはどうにも私を手放さない。私が手放さないんじゃあない、向こうが手放さないのだ。そう思った方が、人生をなにか得体の知れないものと伴走している気がして、心地が、よい。

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朝起きられない。どうにか午前中に起きられるようにはなりつつあるが、それでも決まった時間に毎日起きるというのは、私には至難の業だ。

買い物ができない。というか外出が満足にできない。散歩すら最近は失敗することが多い。世の中の人間は吐くという行為、吐きそうになる恐怖というのをそれほど感じないのか?私は世界が終わるような絶望を感じるのだが、どうなんだ、一般?

夜眠れない。夜中にほぼ毎日3回は目が覚める、いわゆる中途覚醒というやつだ。睡眠をとることにどうしてか抵抗もある。だからここ1週間くらいはなるべくそのハードルを下げようと、布団を敷かずに寝ている。床には先月か先々月くらいに一目ぼれて買ったトリックアート調のラグが敷かれていて、いつかここに横たわったら異世界に行かないだろうかと、そんな夢を、見ているような気がする。

同じような日々を繰り返している。そのくせ同じように過ごせない日々を繰り返している。いつだって人生は思い通りにいかず、それをそういうもんだと言って笑う、その笑みが悪意に満ちているか否かに関わらず、わかったようなわかっていないような、自分の理解の範疇だけで物事を判断して人を慰めにかかる人間はこの世にとても多くて、たまにそこに足を突っ込んでいる自分を見て、慌てて泥水から足を引き抜く。その水に浸かった人間を忌避する傾向に私はあるのだが、だけど、そちらは意外にも住みやすそうにも見えてしまう。

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なんだかんだ言って、笑うと楽しい。笑っている人間を不快に感じることの多い性分だが、しかしながらいざその立場になると、脳みそが軽くなるの感じる。泥水も一種の茶なのかもしれない。

ぼんやりしながら生きる、というのはどんなものなのだろうとたまに思う。私はぼんやりすることがない。常に脳内をなにかしらのアイデア、空想、音楽、過去の回想に未来への展望などあらゆるものがひしめき合って、満ち満ちている。空っぽになるとかいうことは絶対にない。例えばヨガをしていてもそうだし、湯船に浸かっていてもそう、眠りに落ちる直前まで、ずっと、満たされている。

しばらく精神的にしんどい日が少し前まで続いていたのだが、そういう日は、決まって頭の中が人から見た自分のことでいっぱいだった。どれだけ迷惑をかけているか、かけていないか、どれだけ負担になっているか、いないか…人から見た己のことなどわかるはずもないのだから、これは鏡と向き合ってその表面の罅をなぞるような行為なのだ。だから自分で自分を傷付けるようなことになるし、うんともすんとも言わないどろどろした結論の澱だけが残るし、いつか忘れる。

休むということは難しくないだろうか?

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すべては過ぎる。今も過去になり、過去はさらに過去になり、積もった灰は吹き飛ばされて目視できなくなる。わりとよく思うことなのだが、飲み込む前の茶の味をもっと知りたいというような欲求がある。熱さ、苦さ、渋さ、粘り気…どれもすぐそばにあるときはただただ嫌なだけで、けれど飲み込むと、それはどこか虚しさと空虚さすらを残す。感じさせる。

人もそうだ。間違いなく。嫌な人間、鬱陶しい人間、邪魔な人間、誰も彼もそばにいるときはべたべたした殺意を湧かせるのに、いなくなると、なんだか寂しい。ただまあ、寂しいのは、そのべたべたに感じるもので、彼ら彼女ら本人ではないというのが独特なのだが…。

ともかく、そういうもんなんだろう。私は現在とは、向き合えない。いつも過ぎ去ったあとの影、やってくる前の光、そこにばかり執着して、今、がわからない。それがなんだという話だが、そういう話だ。今に向き合わないからこの話の終わりもない。人生は仄かな靄のように広がって、どこまでも広がって、収拾がつかなくなる。湯呑みに溜まった茶の底に、ぼやぼやしたものがある。これは甘いのだろうか、苦いのだろうか。澱なのだろうか、靄なのだろうか。いつまでもそれを見ている。