満員電車に揺られて、目的地まで着くと人は一斉に電車から吐き出される。みんな行きたくないけれど、今日も頑張って職場に向かうのだ。
その証拠にみんなの朝の顔は死んでいる。だけどその中に唯一の楽しみを見つけて、週末への希望をもって、みんな必死に今日を生きるのだ。
二〇二二年の春、私もそんな彼らの仲間入りをした。
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社会人って、いったい何だろう。働くって何だろう。何故だれが決めたのか分からないレールに乗って、社会人というものにならないといけないのだろう。狭い狭い世界で、人間関係に疲弊し、体を限界まで駆使して、自由な時間なんて殆どない。これが社会人ってやつなのか。
そういえば、最近腹の底から笑っていない。そういえば最近、あの子に連絡を取っていない。電話もしていない。
きっとあの子もこの子も、忙しいのだろうなという思い込みで、一人ひとり疎遠になっていくこの感覚。忙しさにかまけて、私はやりたいことも、会いたい人も、行きたい場所も、すべて後回しにしていた。
頑張ったって、どうせ死ぬときは死ぬし。どれだけ稼いだって、使うのは一瞬だし。そんな「でもでもだって」が私の口癖になるにつれて、身の回りにわかりやすく変化はあるのだった。それは、なにもいいことが起きなくなるのだ。
世界を斜に構える人に、幸せなんて訪れないのだと思っていたけれど、実はそうではない。そういう人は、幸せが訪れていたとしてもそれに気が付けないのだ。残念ながら、それが社会人になったばかりの私の姿だった。
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「同期がね、いつもこっちが明るく挨拶しているのに、何あの態度。あの目つきをなんで朝から浴びないといけないの?」
「上司がね、産休に入るからって全部全部私にゆだねてくるの。毎日毎日、あなただったら今後どうしますかどうしますかって、自分が勝手に妊娠して産休に入るくせに、急に負担増やさないでほしいんだよ」
社会人になったばかりの友達同士での会話は、たいていが仕事の愚痴になる。そしてこれらの見苦しい愚痴たちは、私の口から発された言葉だ。
人は自分が大変だと、みんなが楽をしているように感じるのだ。あの子は楽そうでいいな。あの子はいつも暇そうでいいな。あの子の部署はこんないざこざないのだろうな。
そうやって、全部全部世界を羨望のまなざしで見て、自分の境遇と対比し、いかに自分が恵まれていないかを再確認して、それに少し陶酔してしまう。不幸な私が、かわいそうで、だけどなんだかんだ一番自分が可愛いのだ。
「人はね、円のほんの一部が欠けているとそこばかりが気になるようになるの。だけど、自分にはほかにこんなに恵まれている部分があるということに気が付けなくなるんだよ」
上司はある日、飲みの場で紙に一か所だけ隙間の空いた円を描きながら、私にそう言った。
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わずかな隙間を気にしていたこの一年。自分にはこんなにも恵まれた上司がいて、幸いにも仕事に行けないほど起き上がれない朝はなかったし、そして週末は苦楽を共にできる友達や彼氏がいるのだ。
なんで早く気が付かなかったのだろう。自分がつらくて、それを言える限りに人に相談して少しだけすっきりして、人のあら捜しばっかりして。
だけど本当に見つめ直さないといけないのは自分なのだ。あの子の挨拶がどうだとか、上司のあの言い方がどうだとか、全部自分に置き換えて考えていかないといけないのに、なんで自分のことは棚に上げていたんだろう。
そんな風に俯瞰して世界を見られるようになるのに、私は一年も要してしまった。これからの一年は、人は自分の鏡だと思おう。人のふり見て我がふりなおす。
人の気になる点は、案外自分にも言える欠点なのかもしれないという言葉を、このエッセイを書きながら急に思い出した。