「この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い気がします」
文豪・芥川龍之介が、のちに妻となる塚本文への溢れる愛を綴った恋文の中の一文である。
最近この文を読んで、自分にも似た感情があったことを思い出した。

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身なりに厳しい先輩の顔色を伺いながら、初めて黒以外のスーツに袖を通した新卒2年目の春。同期とともに、少し明るいグレーのスーツに身を包み迎えた新年度最初の朝礼で、私の心はとてもそわそわしていた。

何故そわそわしているのか、自分でもよく分からなかった。

今日から”新入社員”という若葉マークが取れてしまう不安からなのか、憧れのお姉さんスーツを着たからなのか、それとも相変わらず話の長い部長の隣に立っている、緊張した面持ちの新入社員から目が離せないからなのか。

関西弁が見え隠れする慣れない標準語で、時々噛みながらも一生懸命に自己紹介をする新入社員。

大阪出身なんだ、初々しいなぁ、爽やかな好青年だなぁ。
彼に対しての第一印象だった。

東京本社には営業部が8部署あり、それぞれ30人ほどの規模になる。入社2年目の私は、同じ部に配属になった彼の教育担当になった。
早速、彼を連れて部内の各チームに挨拶に回った。
改めて隣に並んで歩いてみると、肩幅が広くて脚はスラリと長くて、まつ毛が長いんだな、と思った。

この時もまた私の心はそわそわしていた。初めての後輩ができたからだ。きっとそうだ。

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しかしこの新人教育、一筋縄ではいかなかった。彼はとても素直で、そして頑固だったのだ。
昔ながらの日系企業には、たくさんの「1年目業務」があった。例えば、毎朝の朝礼では社訓が書かれたボードを手に持って掲げ、全員で読み上げる進行をしなければならない。
これをちゃんとしないと、2年目の教育担当から呼び出され、指導が入る。私も新卒1年目の時は、幾度となく呼び出されては指導された。

自分が教育担当になり分かったことだが、部内にお局がいて、新人教育について毎日のように私が呼び出されて叱責された。
ああなるほど、私の一つ上の先輩方もこんな苦労をしていたのか。こういう仕組みになっていたのね、と納得した。

先輩方の例に倣って、後輩の彼を呼び出して指導した。

すると彼から「この指導は業務に関係あるんですか?」と質問された。
私は面食らった。何も答えられない。そういうものだと全て飲み込んで考えることを諦めていたから。
彼はいつもそんな調子で、思ったことは何でも言うし、納得できないことはやらなかった。
お局と板挟みにされた私はいつも困っていたが、不思議と憎めなかった。

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今だから分かるが、あれはやっぱり一目惚れだったのだと思う。
何故なら、指導しては聞き返されて困っている時ですら、彼といる時の私は常にそわそわしていたから。

彼が2年目になりしばらくして、何故か私に告白をしてきた。
当時私には彼氏がいたので一度は断ったにも関わらず、不器用ながらも一生懸命、健気に想いを伝え続けてくれた。私の気持ちはそわそわどころではなくなってしまい、次第にそれが当時の彼氏への罪悪感となり、お別れすることになった。

彼はどこまでも、素直で頑固だなぁと感心してしまった。

そうして職場の後輩だった彼は、恋人になった。
これまで歳上としか恋愛してこなかった私にとって、彼と過ごす日々は新鮮だった。
リードしようとするけどいつも上手くいかなくて、それすら愛おしかった。

知れば知るほど「頭から食べてしまいたい位可愛い気がする」男であった。

6年前のことを思い出して、なんだかくすぐったい気持ちになった。
でももう私の心はそわそわしない。代わりに、あったかい気持ちになる。
何故ならその可愛い男と私は、家族になったから。