客席には私と、共演者である他のバンドのメンバー達と、片手で数えられる程の少ないファン。私が大好きなバンドは、まだ駆け出しの売れないインディーズバンドだった。
初めてライブハウスでそのバンドを見た時、疾走感のあるドラムの音、よく通るボーカルのハイトーンボイス、作詞作曲ともに抜群のセンス、私はそのバンドの全てに惹かれた。

好きなバンドに新メンバーが加わった。私は、その彼に一目惚れした

初めてそのバンドを見た時、メンバーの4人はまだ大学生だった。彼らが大学を卒業する頃、就職に向けで2人のメンバーがバンドを脱退した。
そして、新しく加入したのが、私が後に一夜を共にする彼だった。初めて見た時から一目惚れだったと思う。
でも、私は彼のファンではなく、あくまでこのバンドのファンであり続けた。そして、その頃には他のファンも増え、私は何人もいるファンの内の1人としてメンバーからの認知も薄れていった。ファンが増え、彼らが出演するライブも増え、私が彼らのライブに足を運ぶ頻度は減っていった。

そんなある日、私はいつものようにライブに行った後、近くのバーに寄って顔見知りのマスターと飲みながら話をしていた。その日は、始発まで飲むと決めていたから終電を見送り、他の常連とも少し話をしながら日付が変わるまで飲んでいた。
日付が変わって2時間、珍しい時間帯にバーの扉が開いた。そこにいたのは、例のバンドの彼だった。ライブハウス以外の場所で、そしてこんな近くで見る彼の姿にドキドキした。私の近くに座り、強いお酒を飲みながらマスターと話を始めた。

1時間程経った頃、彼は私に話しかけてくるようになった。最初は何気ない初対面の男女がするような会話をしていた。彼は、私がファンだということには気付いていないようだった。
しばらくすると彼が「俺、実はバンドやってて、〇〇っていうバンドなんだけど」とバンドの話を始めた。もちろんそのバンドはよく知っている。
でも、私は「名前は聞いたことあるかも」と、知らないふりをした。ファンだと気付かれなければ、このまま仲良くなれるかもしれないと思ったからだった。
その後も2人で沢山お酒を飲んで、だいぶ2人の距離が近くなった頃、彼が私にキスをしてきた。私もそれを受け入れ、そのまま近くのホテルに移動した。2人でお風呂に入り、初対面とは思えない程激しく何度も抱き合った。

私は彼のファンではなく、バンドそのものが大好きなつもりだったはず

外もすっかり明るくなった頃、私はふと「ファンの子に手を出すことってあるの?」と聞いた。彼は「絶対ない。付き合う前の相手に手を出すのも初めて」と言った。それが本当かどうかはわからないけど、普段真面目な彼を、私はずっと前から知っている。
2人でホテルを出ると、彼が「疲れてるでしょ?うちに泊まっていく?」と聞いてきたけど「大丈夫だよ」と返し、私は通勤ラッシュが始まった満員電車に乗った。
連絡先は交換しなかった。あの時彼の家に泊まっていれば、交換していたかもしれない。だけど、私は後悔していなかった。
数日後、あれから彼らの曲を1度も聴いていないことに気が付いた。1番好きだった曲を聴いてみたけど、何故か私の心には以前のように響かなくなっていた。

私は彼のファンではなく、彼のバンドそのものが大好きなつもりだった。でも、普段真面目に演奏する姿を見て、私はいつの間にかバンドじゃなく彼のことが好きだったのかもしれない。抱かれておいて身勝手だけど、バーで知り合っただけの女に手を出したことに冷めてしまったのかもしれないと思った。
バンドに対する熱も、彼に対する熱も一瞬で冷めるような自分に腹が立った。自分が原因なのだから尚更だ。彼に抱かれることは、自分で願っていたはずなのに最低だと思った。
変わらず彼のバンドを応援するべきなのか、もうファンを卒業するべきなのか悩み、私は後者を選んだ。だけど最後に1度だけ、彼のライブに行こうと思った。

彼に冷めたのではなく、皆が欲しがるものを手にした事に満足したから

そして、ライブ当日。ステージに上がる彼の姿を見てドキッとした。だけどそれ以上に、彼に声援を送る沢山のファンを見た瞬間、私は彼に抱かれた時よりも強い興奮を感じた。
私が彼に冷めた理由は、彼が私に手を出したからじゃない。皆が欲しがるものを手にした事に満足したから、冷めたのだと気付いた。私は最低だ。もうここに来るのはやめよう、そう思った。

そして帰り際、物販でメンバーやファンと会話する彼の元に向かった。彼は一瞬驚いた顔をした後、笑顔で「来てくれたんだ、また遊びに来てよ」と言った。
彼は、あの時バンド名を名乗ったから来てくれたのだと思ったのだろう。私は何も言わず手を振り返し、「もう二度と会わないよ」と心の中で思った。