数ヶ月ほど前、わたしのひと夏の恋はあっけなく終わった。
職場で他部署のMさんから新しいプロジェクトの手伝い依頼を受けたのは去年の6月中旬。
声をかけられ会話を終えたその瞬間、心をぎゅっと掴まれたような、急に日常の風景がぽっときらびやかな桃色に色づいたような錯覚に陥った。
真面目で、いつも自分のことは後まわしで、頼まれごとにはNOと言えないお人好し。
しっかり者に見えて手を抜くところはしっかり抜く、彼はわたしの8つ上。そんなMさんに恋をした。
◎ ◎
それから共に仕事をするようになり、週に1度の打合せの場。
「○○さん、好きそうかなって」
会議室で2人きりになると手渡されたのは、当時わたしがよく飲んでいた抹茶ラテ。
かくいうわたしも、Mさんと一緒に食べたくておいしいクッキーを用意していた。
「なんか、お茶会みたいですね」
なんて、会議室でこっそり笑いあった。
Mさんとは私生活でも連絡を取りあうようになった。
毎日、2往復くらいの他愛も無いやりとり。
Mさんからの連絡がくる度に、どうしようもなく心が躍った。
仕事上で連絡を取り合うために必要に迫られて交換した連絡先。
気が付けば、職場でMさんのことを自然と目で追う癖がついていた。
Mさんとは、平日の仕事終わりに度々ふたりで飲みに行くようになった。
何気ないおしゃべりが楽しくって、幸せで。
時間が止まり、このひとときがいつまでも続いたらと何度願っただろう。
職場では見せない、わたしだけしか知らないMさんのくだけた表情を目に焼きつけた。
◎ ◎
7月下旬の金曜日、わたしたちの関係が揺らいだのは突然だった。
Mさんと一緒に大きな仕事を無事に終えたその日、「本当お疲れさまでした〜」なんて話をしながら共に帰路についていた。
じゃあここで、という分かれ道で、
「今日、家帰ったらぱーっと晩酌するんだよね」
とMさんは急にぼやいて、
わたしは何気なく、
「やりましたね、今日は華金ですもんね」
と返した。
でもそれが聞こえなかったのか、聞き返されてしまって。
瞳にほのかな期待をまとわせ、緊張の混じった表情で。
これが意味していることは、つまり、と瞬時に悟ってしまって。
深読みしすぎかな、と急に恥ずかしくなって同じように「やりましたね」と繰り返すしかなくて。
でもその後、実際は1秒にも満たないくらいだったのだと思う。
「わたしもご一緒していいですか」
勇気を奮い立たせて、わたしから誘ったんだと思う。
初めて上がったひとり暮らしの部屋は几帳面なMさんの人柄がよく表れていて、見渡せば感じる生活感はこの急展開の現実味を際立たせた。
Mさんの家までの道中立ち寄ったコンビニで買ったのは、数本のビールと缶チューハイ。
だんだんと酔いがまわってきて、あまり思考がまとまらなくなってきた頃。
横並びで座っていた肩同士が少し触れたかと思ったら、アルコールのにおいの混じったMさんの吐息が頬にかかる距離まで近づいていて。
わたしたちはそのまま指と指をからめて、夏の夜のにおいとじっとりとした湿気が辺りに漂うなか、静かに身体を重ねた。
◎ ◎
その日以降も何度かお家にお呼ばれしたり、車を走らせて遠くへ遊びに行ったりした。
しかしMさんとはだんだんと疎遠になっていった。
発生もしていないけれど、自然消滅という言葉がしっくりきた。
理由は明確なような、そもそも理由なんてないような。
お互いに臆病だった。
あと1歩を踏み出せずにいた。
好きという気持ちだけで一緒にいられる若さも度胸もなかった。
それでいて、この微妙な関係や繋がりが心地よかった。
ただ、それだけだったように思う。
次第に気まずくなり、職場で顔を合わせる機会はありながら、去年の10月頃から今年の1月上旬までは全くといっていいほどに会話もなかった。
けれど、その期間もわたしはMさんを想い続けていた。
Mさんとの別れは突然訪れた。
Mさんは転職が決まり、2月から新たな場所で歩みをすすめることになったのだ。
数か月ぶりに連絡がきてそのことを知ったときには、驚きのあまり出先にも関わらずその場に立ち尽くし、心からのお祝いの気持ちと、少しの寂しさが入り混じった複雑な感情に苛まれた。
◎ ◎
「返したいものがあるんですが、お引っ越しの日までですこしお時間あるときってあったりしますか?」
最後に直接お別れの挨拶をしたくて送ったメッセージはすぐに既読がついた。
職場では、
「○○さんとMさんて付き合ってるの?」
なんて他部署の先輩から尋ねられるほどに、好意が態度に出てしまっていたみたいだった。今となってはただ虚しい。
わたしのメッセージにMさんはすぐに返信をくれて、引越し1週間前の1月下旬のある夜、Mさん宅を訪ねることになった。
久しぶりだというのに、Mさんも部屋も、荷造りのダンボールが部屋の隅に積まれているのを除いて、あの夏とちっとも変わっていなかった。
少しの雑談を交わし、借りていた半袖のパジャマを返したのち、わたしは意を決してMさんに告白した。
くすぶらせたこの気持ちを吐き出して、思い切りふられて、すっきりしたかった。
でも、
「嬉しい。ありがとう。俺も、うん、好きだった」
わたしの好きな、Mさんの方言混じりのイントネーションで紡がれたその言葉は、ひと夏限りの淡い繋がりを肯定し、1歩を踏み出せなかった臆病なわたしたちを赦した。
そして最後にお酒を酌み交わした。
あの夏と変わらない、わたしたちの間に流れる時間。
それから毛布に潜りこみ、身体を重ねた。
言葉にこそ出さなかったが、そこにはしっかりとお別れの意味が込められていたのが分かった。
おずおずとさわってきたり、すこし引いたら寂しそうに触れたり。
いじらしい、ずるい。
ずるくないところがずるすぎる。
熱を帯びた真直ぐな瞳で見つめられる度に切なさが募った。
せめて四季をともにしたかった。
◎ ◎
いつだって苦しいのは残されたほうだ。
2月、Mさんは頼もしい背中で新天地へと発った。
Mさんとどうにかなりたい、なんて望まないし望めない。
ただ一つ、わたしと重ねた時間が、Mさんにとっても忘れ難い記憶になっていたらと願う。
時折思い返しては、いつでも縋って、また立ち直って、それを女々しくいつまでも繰り返しながら、忘れていきたい。