私にはやめたくても、怖くてやめられない癖がある。それは「明るくていい人ごっこ」をしてしまう癖だ。いつの間にか私は悲観的で暗い性格になっていた。昔は明るくてユーモアのある人間だったのに。

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「人は一人では生きていけんよ」「周りの人と仲良くしなさい」「そんな暗い顔するな」これは親に散々言われて、頭に叩き込まれた言葉だ。反感を覚えつつも、親元を離れた今でもこの言葉にとらわれ続けている。
ネクラという言葉があり、ネクラの人が疎んじられるのが今の世の中だと感じている。確かに、客観的に見ていても暗い人の印象はあまり良くない。だからこそ私は暗い雰囲気を醸し出したら終わりだ、誰も近付いてくれなくなる…と感じてしまう。
いつしか私は、「明るくていい人」を無意識のうちに演じてしまうようになった。そして一度いい人を演じてしまうと、見損なわれることへの恐怖から、いい人ごっこがやめられなくなる。知っている人とすれ違ったらちゃんと挨拶をして、通路に落ちてるゴミは拾って、人の話をきちんと楽しそうに聞いて、頼まれごとはできる限り受け入れて、困っている人がいたら自分にできることを聞いて…。

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そんなの大人として当たり前だろう、と思われるかもしれない。私の自意識過剰なだけかもしれない。しかし、そもそも私はできるだけ人と関わりたくない。だから、本当は気づかないふりをしてスルーしたいし、人のゴミ処理なんてしたくないし、そもそも人と会話するのはあまり好きではないし、都合よく人に使われるのは嫌だ。でも、人に嫌われないために、私はいい人ごっこをせざるを得ない。
歳を重ねるにつれ、社会のしがらみなどの中で、自分を合わせて生きている人が大抵なのかもしれない。シェイクスピアの名言にも、”all the world’s a stage, and all the men and women merely players”というものがある。この世は舞台、人はみな役者だ、というのである。多くの人がなんらかの欲求や需要のために自分を演じて生きているのだろうか。私の家族は自由な人が多くて、割とありのままに生きている気がするがそれも演技なのだろうか。

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私は、やめることができるのであればいい人ごっこをやめてしまいたい。私はいい人ごっこにも過不足があるのかもしれないが、いい人ごっこはある程度、社会で好ましいとされる人を演じることだと思っている。好ましいとされる人がいて、自分がそうじゃないから、社会で受け入れてもらうために、つい、いい人を演じてしまう。
私が考えすぎなのだろうか、承認欲求が高いのだろうか、と考えるだけでも苦しい。楽に生きるためにもいい人ごっこをしている自分を忘れようとしている。多様性がこれほど叫ばれる世の中でも、私は無意識のうちにいい人ごっこを演じている。少しでも社会をうまく乗り切るために、自分を捨てて。私は何のために生きているのかわからない。

こんな癖を持たなくても社会で生きていけるような日が来て欲しいという他力本願な願いで筆をくくらせていただく。