休日、私は不自由な時間を過ごす。映画を見に行き、スマホや人とのコミュニケーションから離れる時間を作る。小説の1ページ目を開き、1冊読み切るまで小説以外の情報に触れない。英語を使ってイタリア語を学び、日本語を一切使わない時間を過ごす。せっかくの休日を過ごす環境を、私はわざわざ不自由な環境にしている。

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私は、不自由な時間が嫌いじゃない。その時間だけは、私のままで居られると感じるからだ。映画を見て動かされた感情は私だけのもの。上映が終わるまでの時間は他人がどう感じた、何を考えたなどを考えなくていい。人と違うとか、少数派の意見とか、誰かと比較できない時間が好きだ。もちろん、上映終了後に感想を伝え合うのも、ネットで考察を読むのも嫌いじゃない。でも、映画を見ている2時間だけは“私は私だ”という感覚を味わいたい。

小説を読んでいる時間も同じだ。ネタバレありの要約記事があふれているネット社会だけれど、自分自身で最初から最後まで読んで自分なりの作品への解釈を考える時間が好きだ。小説だけに向き合っている時間は、登場人物への印象や、共感できたかどうかを他人と比べることができない。

日本では空気を読む文化が強く、本心では好きと思っていても周りに合わせて答えを変えることがある。そのうち、だんだんと自分の最初に抱いていた感情と人に話した建前の感情、どちらが本物だったのかわからなくなることがある。だから、私は小説と向き合うことで“私の本当の気持ち”を確認することができる。

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日本語を使わない言語学習は私に新たな気づきを与えてくれた。それは、「私は日本の住人だけれど、それと同時に、地球の住人だった」ということだ。なにを当たり前なことをと笑う人もいるだろう。だが、私にとっては衝撃的だったのだ。

私は幼い頃から英会話をしていたのだが、日本語で英語を学んでいた。だから、どうしても日本人が英語を学んでいるという感覚が強かった。それなりに話せるようになっても、私は日本人だという感覚のままだった。

だが、今回イタリア語を学ぶにあたって、日本語でイタリア語を学ぶよりも英語話者は英語でイタリア語を学んだほうが文法的にわかりやすいという話を聞いた。最初は不安もあったが、確かに英語で学ぶとスッと答えが出てくる感覚があった。

そこから、私は日本語を使わずにイタリア語を勉強している。初めて、日本語を一切使わずに物事を学んでいると、“私は日本人だ”という強く根付いていた価値観が少し変わった。「日本の価値観や文化だけがすべてじゃない。私は日本人という側面も持っているけれど、それがすべてじゃない」、そう思えるようになっていた。不自由な時間が、私の心を自由にしてくれたように感じる。

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便利で快適なものばかり開発され提供される社会の流れ。その中で私たちは、本当にそれが自分を豊かにしてくれるものなのか考える必要があると感じている。例えば映画のサブスクサービス。いつでもどこでも、何をしながらでも映画を見られるというのは画期的だ。

しかし、私が映画に求める不自由さは与えてくれない。電子書籍だって、本を持ち歩く必要がなくなり気軽に読書ができるようになった。だが、本に没頭できるかというと少し違う。読んでいる間に人からの連絡やおすすめニュースの通知が端末に届く。どちらのほうが自分にとって価値があるのかは1人1人が判断していく必要があると思う。

私の理想の休日に必要なものは、不自由な環境と、その不自由さを楽しめる心の豊かさ。それと、自分の感情に耳を傾けること。それだけで、「この1週間も、自分らしく生きていこう」と思えるし、「この1週間も、自分らしく生きていける」と確信できる。周りに合わせることも必要な社会の中でも、自分らしさを見失わないために、私はこの不自由な休日が必要なのだ。