大学時代の遊び場が、気付けば渋谷から六本木、西麻布に変わっていた。友達が港区で夜職をやっていた事もあり、その繋がりで、一般人と感覚の違う友達や、男性と知り合う機会が多かった。
そこは、「お金と時間」の限界が存在しない世界。気付かぬうちに私も、いわゆる「界隈の色」に、染まっていたのかもしれない。
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「港区女子」という言葉が流行る前から、そこでは整形顔が好まれていた。
ルッキズムを唱える人達には怒られそうだけど、この界隈では反ルッキズムは悪あがきに過ぎず、男は「金と酒の強さ」、女は「美しさとあざとさ」があってこそ幅が利く。
くっきり二重と、シリコンを入れた鼻筋、整った肌と脂肪がなくて糸で引き上がったシャープな輪郭、ノーマルカメラでも、加工アプリを施したような顔こそが、そこでの容姿の基準。
誰も決めていない「暗黙の美しさのルール」は、確かに存在していたと思う。
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美しいと称される人が多すぎて、無意識にきっと誰かと比べている。
あれほど痛い思いをしたのに「まだ足りない」と虚無感を得ては、他の気になる部分を整える。その瞬間は「美しくなった」と、自覚したはずなのに。
術後のアザがグロテスクな紫色から、治りかけの黄色に変わっていくと同時に、また違う誰かと比較して、再び「美容整形」にこだわる。
自分に自信を持つための手段が、美容整形のはずだったが、いかに港区ウケする顔か否かが、なりたい顔の軸となっていた。
そんな自分が嫌いな理由に気付いた時には、何気ない他人の言葉や評価が気になって、暗くて色が見えない、居心地の悪い界隈の中に溶けていた。繰り返す「整形ドラッグ」のスパイラルに、すでに陥っていた。
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誰しも好きな顔をカスタマイズして、生まれてくるわけではない。
コンプレックスを解消するための方法が、たとえ整形であったとしても、本人が肯定的で自信を持つきっかけに繋がれば、それはポジティブな事だと思う。
最も大切なことは、「美容整形」に沼るリスクが、隣り合わせであるという危険性の認識であり、一定の距離感を、キープする事だと思う。なぜなら整形を続けていると、自分の色を見失ってしまう気がするから。
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「わたしは唯一無二の存在である」と自覚するには、「誰か」または「何か」と過ごす「時間」に、目を向ける必要があるかもしれない。
恋人や友人と思い出を紡ぐ日々、家族と過ごすたわいもない時間、忘れられない感動の体験、豊かな大自然の絶景に心酔いしれる瞬間…
当たり前の有り難さや尊さは、分かりやすい外見至上主義と相反して、極めて情緒的だからこそ、その素晴らしさに気付くことは容易ではない。
曇天の灰色から、雲一つない晴天の青色に変わっていくように、自分のちっぽけさを感じて、いつしか「美容整形」にこだわりを捨てた。
世界は思っている以上に大きくて、感じ方次第で、無限の可能性があるのかもしれない。
そんな自分が好きな理由に気付いた時は、鎖が外れ力が抜けて、他人の評価なんてどうでもよくなり、柔らかく何色でもない、心地良い空気の中に溶けていく。
自分の「見た目」ではなく、自分の「見る目」が変わった時に。