「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私はあなたと結婚したいのです」

このキャッチコピー、聞き覚えのある方はいないだろうか。
これは、ブライダル情報誌「ゼクシィ」のCMで流れたキャッチコピーだ。
このCM がテレビで流れていた時、私はまだ大学生になったばかりで、「結婚」なんて遠い将来のことだと思っていた。

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ちょうど姉が結婚することになり、両家の顔合わせあった時期に、このCMを見て、「まあ確かに、結婚しなくても幸せになれるもんね」と思ったことは今でも覚えている。
当時、まだ「結婚」に結びつくような恋愛も経験していなかったし、「好き=付き合う」で物語が完結するような、そんな恋愛ばかりだった。

私は、大人びた悲観的なティーンエージャーだったのか、「結婚すれば幸せになれる」とは思っていなかった。「私もいつか結婚するんだろうな」と夢見ることもしなかった。
思春期の頃から、私の人生計画には私しかいなかった。

私の人生計画には、「将来の旦那さん」や「子供」といったワードは存在していなかった。

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「結婚って大変そう」

これが私の率直な感想であって、正直今でも「結婚は面倒くさくて大変」だと思っている。
どちらの親がどれくらいの結婚式費用を出すのか。
新居の家具は誰が支払うのか。
結婚式には誰を呼び、何人くらいの規模にするのか。

ただ「婚姻届」という紙を提出するだけで簡単に済んでしまうのが「結婚」なのに、「結婚=同居」「結婚=両家の結びつき」「結婚=将来の家庭のためにも節約して貯金しないといけない」という価値観に囚われて、いつの間にか自由が奪われたかのような気分になってしまう。

「今の恋人と付き合って、将来どうするの?」という質問に対しては、20代女性としては

「彼との将来ももちろん考えているよ。結婚するかもしれない。」

と答えることが世間が求める正解だと思う。

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将来さえ考えられないような相手と付き合う必要はない。
結婚するつもりじゃないなら、20代の貴重な時間を無駄にしてまで、その男性と付き合う必要はない。

私の周りを漂うこれらの価値観や言葉は、とても合理的だし、正しいとは思うけれど、なぜか少し悲しくなってくる。
誰かを好きにならないとまるで異常かのように聞こえるし、それがある一人の異性であることが当たり前だと突き付けられている気がしてくる。

そもそも、結婚は日本の異性愛者に与えられたある種の特権なのではないか。
同性婚が認められていない日本において、結婚できるのは異性愛者だからこそであって、実は私は幸運な人だと言えるのかもしれない。

異性愛者として、結婚したら幸せになれるだけではないし、結婚しなくても2人で幸せに過ごす方法はある。
結婚しないまま子供を産むことにはもちろんハードルはあるし、世間からの視線が痛いと感じることもあるだろうけど、「子供を産むなら結婚しなさい」という法律があるわけではない。

結婚しなくても、パートナーと一緒に暮らすことはできるし、子供も産める。
今の日本では、日本人同士で結婚したら、姓を同一にしなければいけないから、どちらかが名字を変える、という一大イベントも結婚と同時に発生する。

今の恋人は率先して「名字変えるよ」と言ってくれるような人だけれど、
本当にいつかその時が来たら、どちらが名字を変えるのか、やはり議論になってしまう気もする。結局あみだくじで決めることが一番フェアなのかもしれない。

そう、私たちは結婚しなくても幸せになれるはずなのに、結婚したらむしろ面倒なことがあるのに、なぜこれほどまでに「結婚」に執着するのだろう。

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私なりの考えとしては、結婚しなくても幸せになれるこの時代で、あえて「結婚」するのは、血のつながっていない2人が、支え合おうと思うからだと思う。
婚姻制度という法的に保障された制度では、パートナーに収入がないなら扶養ができるし、どちらかが病めるときや貧しいとき、その不幸を限りなく小さくすることができる。
ある意味それは、相手の人生に対して責任を負うことでもある。

子供を産むためではない。
老後の一人生活が辛いからではない。
ただ家に帰って誰かにいてほしいからではない。
私は、愛する人の人生の責任を負うために、いつか結婚しようと思う。