天性のものなのか、それとも経験からくる思い込みがそうさせているのかは分かりませんが私には悲しい習慣があります。私の記憶にある中では最初から、いわゆる「幸せな恋愛」ができないのです。
好きな人ができて付き合うことになっても、しばらくすると彼のことを「こんなだめな私を好きなる人って、もしかしたら大したことない人間なのかもしれない」と思えてしまい、一定期間を過ぎると冷めてしまうのです。昨今流行りの「蛙化現象」にも近いですが、彼はなにもしていなくても私のことが好きというだけで「気持ち悪い存在」になり下がってしまいます。
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最初にこのように思ったのは中学生の時です。私の中学校は、2つの小学校から進学してくる学校で、彼と私は別の小学校出身でした。見た目はそこそこなものの、成績が良く、ユーモアたっぷりの笑いのセンスと高身長で小学校のときから女子人気は高かったようです。
学生時代特有の「○○くん、みのりちゃんのこと好きらしいよ」が1学期から始まり、お祭りに行ったりと一緒に夏休みを過ごし、肌寒くなった秋頃に付き合うことになりました。しかし、冬が終わる前には「私のことを褒めたり、好きだって思ったりするような人なんてきっとそれほどの人ではない」と思えてしまい、結局適当な理由をつけて別れてしまいました。
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次の彼氏は高校生の時に付き合った10歳年上のアメリカ人の大学院生でした。高校2年生の夏から付き合い始め、共通の趣味があったことから最初こそ楽しく過ごしていました。それでも、冬の終わり頃には同じように「たいしたことない人」だと思えてしまい、翌年の夏には私に好きな人ができてしまい、結局別れました。英語も日本語も流ちょうに話せ、とてつもなく優しく、朗らかな性格な彼だったにもかかわらずです。
そんなことを繰り返しているうちに、結婚を考えない間は彼氏を作っても意味がないのかもしれないと思うようになりました。自分からは人を好きにならず、「今彼氏はいらないからそれでもいいなら遊ぼ!」に合意してくれる私のことが好きな男性を周りに配置し、飲みに行ったり、遊びに行ったり、楽しい時間を過ごせればそれでいいと思っていました。
そのような男性を複数抱えていれば寂しさを感じることはなく、幸いなことに、そういった男性が途切れることはありませんでした。
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それでもこんな性格は自分でもあまり好きではなく、どうにかしようと私なりに原因を考えた結果、私が人を思う「好き」という感情の根底には「尊敬できる」という条件があるということに気づきました。
私よりなんでも優れていて、加えて平均以上なんでもできて、徳が高い人を尊敬して好きになります。その求める度合は、私の成長と比例して大きくなっていると思いますが、幼い頃からなんでもできるスーパーマンのような人が好きでした。そんな憧れの存在が自分の手の中に納まってしまうと「これじゃない感」を覚えてしまうのだと分かりました。
結局、過去を振り返ると付き合えなかった人のことを「あの人のことを好きだった頃は幸せだった」と思い出すことが多くあります。言い換えれば「私のことを好きになるはずなんてないひと」のことを一生想って懐かしんでいるだけなのです。
こんな卑屈な性格を自覚しているからこそ、「そんな女やめた方が良いよ」と自分の恋愛と彼を客観視してしまうのだろうと思います。改善の見込みはありませんが、いつか「そんな女やめた方が良いよ」と私に思われない女性になりたいです。