「『パートナーいますか?』って聞いた方が良いと思うの」
 女子同士の飲み会。友達が連れてきた友達。所謂他人から、唐突に発せられた言葉。
 まだコロナ前で、マスクもプラスチックの衝立もなく、4人で机を囲んでいた。空気は一瞬固まり、皆怪訝な顔をして彼女の次の言葉を待った。

気取られないように生きる、LGTBの人がここにいるから

「世界には、LGBTの人が実は結構いるから、私は人に聞くときに『パートナーいますか?』って聞くようにしてる。皆もそうしないとだめだと思うよ」
 誇らしげな顔から、誇らしげに吐き出された言葉。カナダに半年留学していたという彼女は、自分の留学生活も交えながら、今や首を縦に振るのみとなった人形のような3人を前に、身振り手振り語った。

「決して気取られないように生きてるLGTBQの人間がここにいるから、そういう強要はしない方が良いと思うよ」
 にっこりと笑顔を作りながら、心の中でそう言った。

 なぜセクシャルマイノリティが、周囲にカミングアウトすることが無意識に、善とされているのだろう。

 世の中にいるほとんどのLGBTQはそれを隠している。
 日本だとなおさら。普段の生活でも公言している人は、殆どいないのではないだろうか。
 理由は何故か?
 不利だからだ。
 理由はこれ。そして、それが今の日本の現実なのだ。

私が気に入らないのは、選択肢が与えられていないことだけ

 マイノリティを嫌悪すること。それは今このご時世では声を大にして言えなくなった。
 しかし、心の中でそれを感じている人は少なくないだろう。
「全然偏見ない」と口にしていても、いざ、身近な友人となると、距離を取る人は体感的にもっと多い。

 「私をそう言う目で見てたの?」「この中なら誰がタイプ?」冗談混じりに言われると、カチンと来る反面、心底傷ついてる自分がいる。

 実際カミングアウトしてみても、今度は過干渉してくる人。
「女同士のセックスってどうやるの?」「どっちが攻め?」と物珍しさから、人のプライバシーに悪気なくずかずかと踏み込んでくる人も多い。
 だから実質、損なのだ。

 世界にも、日本にも、自らのセクシュアルをカミングアウトし、世間の偏見や、不平等な社会を切り開いてきた人たちがいる。
 彼らに対しては尊敬しかない。それがどれほど勇気のいる、勇敢な行動なのか知っているからだ。
 それでも私はただ日本に生きる普通の一般人だから。
 どうしても自分の不利になることはできないし、したくない。
 理解がない、と世間を呪っているわけではない。
 だってマイノリティに理解がないのは当然のことだ。政治でも、エンタメでも、趣味でも、マイノリティなものほど人には理解されにくい。マジョリティ的な、大衆に好まれるものが、良いとされるし、それが王道だとされる。

 私が気に入らないのは、選択肢が与えられていないことだけ。
 本当に愛する人と出会ったとき、彼女と手と手を取り合い、一生一緒に生きていきたいと思った時、伴侶として社会的に認められない。その選択肢がない。これほどの不平等はない。

 しかし、その選択肢を作るためには、大衆的にそれが肯定される必要がある。それも踏まえた上で、彼らは行動しているのだとは分かっている。
 それでも私は親にだってカミングアウトしていない。
 もし家族になりたいほど、愛する同性の恋人ができれば、伝えることはあるかも知れない。親しい友人にもそれまできっと言わないだろう。

社会的に、選択肢として認められることが必要不可欠だ

 冒頭の彼女に言いたいことは、彼女がその心掛けを持ってくれるのは素敵なことだと思うけれども、それをよく知らない他人に、強要することは良くないということだ。

 多くの人と関わればそれが決して珍しくないことに気づくだろうし、真に親しくなればその人物がどんな葛藤を抱えて生きているか知るだろう。歴史を知れば、何らおかしいことではないし、本を読めば生物学的に見てもむしろ自然だといずれ分かるだろう。

 私が望んでいるのは、よく知らない他人に、「パートナーはいますか?」と聞かれることではなくて、親しくなった誰かが、私のカミングアウトに対して、「ん、あそう。」と何でもないように返事をしてくれること。そして、それまでと何ら変わりなく接してくれることだからだ。

 しかし時々心をかすめる言葉がある。
 それは、私の敬愛するアーティストが、あるラジオのインタビューで語った言葉だ。
「大勢の人に囲まれ、繋がっていたとしても、孤独になってしまう。
 何故なら、自分の嘘をみんなが知らないから。本当の自分を他人に打ち明けるまで、神も、悪魔も、自分の信じる何かにも、自分自身が誠実でいなければ覚えてもらえないんだ。
誰かに受け入れて欲しくてもね」
 この言葉があまりにも痛烈に、胸に刺さる夜がある。本当の自分を誰も知らないのではないか。本当は誰も自分のことを愛していないのではないか。
 例えようもない孤独感に苛まれる時がある。

 いつか何の心の枷もなく誰もが、愛する人を愛していると、胸を張って言える日が来ればよいと思う。

 またそれと同じくらいなんでもないことのように、周囲がそれを受け入れてくれる土壌があって欲しい。

 その為には、社会的に選択肢として認められることが必要不可欠なのだ。