憧れ、お手本になる人、ロールモデル、頭のなかで該当者を探してみる。
いない。
好きな女優さんや、モデルはいるけども、別に憧れるという感情にはならない。
昔からそうだったかもしれない。自分にはあまり憧れという概念が生まれない。
彼女たちのことを考えたときに、同じような努力を自分ができる、または「したい」とは到底思えないから。
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あの人みたいになりたい、無条件になれる、という考えが私の中からなくなって、現実主義になったからかもしれない。あの人だって、きっと陰で血のにじむような努力をしている。
私自身が幼いころから、そういう陰で努力をするタイプだったからかもしれない。あとはテレビで好きな女優のドキュメンタリーを見たときに、数か月ぶりにラーメンを食べて泣いているのを見たからかもしれない。いつからか先に、輝く笑顔よりも苦労の姿を思い浮かべるようになって冷めた。
それならもはや私の反比例先にいるような、ジャニーズのイケメンアイドルのほうに憧れるかもしれない。憧れるというか、女の子から黄色い声援を受ける感覚を知りたい。
いつからか自分にとっての「憧れる」の概念は、絶対に今世では自分がなれないものに向くようになった気がする。一つ上げるなら、私は太宰治になりたい。
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あんな人生をかけて破滅的で、美しい芸術家を見たことがないからだ。あわよくば、太宰と玉川心中したあの女になりたい。好きな男と心中した彼女はとんでもなく幸せだったろうにと思う。太宰は最後まで心中を歯向かったらしいが。
でも、できれば私は誰かに憧れるよりも、憧れられる存在でいたい。そう強く思い続けている。中学の卒業式の日、下駄箱に数通手紙が入っていた。これはラブレターかと、私は舞い上がって中身を確認したが、すべて後輩からの「百先輩に憧れてます。高校へ行っても頑張ってください!」というファンレターだった。
なんならその後輩たちのなかの数人は本当に私を追いかけて、私の通っている高校へ猛勉強して、翌年入学してきたのだから大したものだと思う。私が3年間かけてグレたつもりの高校生活が終わる卒業式の日ですら、私の教室まで来て「卒業おめでとうございます!大好きです」と言われた。
いや、君たち後輩のほうがこの超進学高校においては相当素晴らしいよと思ったが、素直にうれしかった。文化祭の委員長やダンスリーダーをやっていた私が、彼女たちの目にキラキラと映るのはもう定められた運命だったかもしれない。なんなら彼女たちが私に抱いた夢を、表面的には壊さず済んだわけだから、良かったのだろう。
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大学に入っても、私は学部代表をやったり、企画を代表として立ち上げたり、何から何まで人前に立つことが多かったりで、後輩や同級生から慕われた。ここまできてもあんまり慕われることを好んでいないというか、慣れていないというか、一生慣れてたまるかというか、自分は根っからの後輩気質だと自分のことを思っていた、もしくは思いたかったから、特にそれで鼻の下を伸ばすこともなかった。
その私のスタンスすら、なんて誠実なんだという評価に繋がったのかもしれないが、私は別になんとも思っていなかった。人は面白いものだ。
そうして大学を卒業して、一年が経つ今。色んなものを失った今、社会からも外れた今。それでも私は具体的かつ明確な憧れをもたない。この先私は、太宰治の「ような」小説家になりたいという漠然とした夢があるから。
自分の好きなように生きて、自分の好きなような小説を書いて、好きなように恋愛して、好きなように生を全うする。そのあとで、私の名前が後世に残れば本望だと思う。叶っても叶わなくても、口にし続けようと決めている。いつか夢は叶うと信じているから。私の憧れは、未来の私だと思う。