「私、髪染める時の匂い好きなんだよね。あ、でも○○(私の名前)は、髪を染めたことがないから、カラー剤の匂いっていってもわからないか。」
大学に入って間もないころ、美容院で髪を染めてきた友人は私にそう言った。私はその時、まだ一度も髪を染めたことがなく、ヘアカラーに使用される染料の匂いは知らなかった。おそらく、染料の香りを好きな人は少数派なのだろうが…。
どんな匂いなのだろう。嗅いだことのない香りは、どんなものだか少し気になったが、その時の会話はそれで終わった。
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私が初めて髪を染めたのが、周囲の友人と比較して遅かった。友人は、大学に入ってすぐに髪を明るくして、大人っぽくなった。中には、高校の卒業式が終わったその日に金髪に染めた知り合いもいる。みんな、髪を染めて、いわゆる「大学デビュー」をしていった。
でも、私は髪を染める勇気がなかなかでなかった。変わることが怖かったからだ。しみて痛い人や、毛髪が過度に傷んでしまう人もいるらしい。似合わなかったらどうしよう、一度染めたら、地毛に戻るまで長い時間がかかる。
そんな不安があった。少しの不安から、髪を染めるのをためらっていた。もちろん、髪を明るくして垢抜けたい、という欲も心の底にあったのだけれど。
変わる勇気を持たない私が、髪を初めて染めたのは、大学2年生の12月だった。染めよう、と思ったのは、少しでも可愛いと思ってもらいたかったからである。
その時付き合っていた彼氏に、私は夢中だった。12月はクリスマス時期のデート。いくら見た目に気を遣わない私でも気合が入る。悩んだ末に、デート当日の午前に、美容院を予約した。彼からの「可愛い」の一言を聞きたくて。
初めてのヘアカラーは、思っていたよりもスーっとして、思っていたよりもキツイ匂いではなかった。好きでも嫌いでもないけど、独特の薬の香り。
しかし、いくじなしの私が、彼に少しでもよく見られようと思って振り絞った勇気は、今ではもう無駄なものになってしまった。私は彼に振られてしまったのである。
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最後に会ってから4年。今はもう、私のことなんか彼は思い出さないだろう。今はもう、私なんかより素敵な女性と彼は付き合っているのだろう。
彼のことが好きだった。いや、彼のことが今も大好きである。ちょっと粘着質でやや高い声。暑くてもポリエステルの蒸れそうな服を着る服のセンス。どうでもいいウンチクを面白く分かりやすく話すことのできる話術。お菓子を少しでも安く買うためにスーパーを梯子する金銭感覚。爽やかなムスク系の香水。
すべてひっくるめて、彼のことが今も大好きである。
自分のためにも、今私が付き合っている人のためにも、彼のことを忘れたいと思う。それでもやはり、大好きすぎて、忘れられそうにない。別れてからの4年間の間、常に彼は私の頭の中にいた。付き合っている時よりも、その存在は大きくなっているほどだ。未だに夢に出てくる。
そして、髪を染めに美容院へ行くたびに、その彼のことを思い出す。私が髪を染めるようになったきっかけのあの人のことを。
ネット上で見かけた知識なのだが、匂いは記憶と結びつきやすいらしい。映像や音よりも、香りの方が昔の思い出を引き出すそうだ。私の場合、それが染料の香りである。あの薬剤の好きでも嫌いでもない、独特の匂いを嗅ぐと彼を思いだしてしまう。
ただでさえ、今も嫌いになれなくて大好きなのに、美容院という定期的に通う場所が、彼を私に思い出させる。この先も、忘れられる気がしない。
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これもまた、ネット上で見かけた知識なのだが、別れてもなお想い続けられるほどの恋愛をできたことを幸せだと捉えるのが、失恋を癒すための考え方らしい。過去を否定するよりも、昔を懐かしむ余裕をもって現在を見つめるのだそうだ。
今はまだ、彼を思い出すたびに悲しいけれど、「あの時は素敵な恋愛をしていたなあ」と懐かしむことができる日は来るだろうか。
前を向くためにも、彼のことを素敵な思い出として感じられる日が来ますように。そしてもし、涙がとまらないほどに彼を思い出してしまったとしたら、ヘアカラーの染料の香りのせいにしてしまおう。