彼が好きだと言った長い髪をすっぱり切った。同棲していた家から彼が出て行った日から、半年と少しが過ぎていた。

◎          ◎

大学生の頃に付き合い始めた彼は、私のメイクだとか服装だとかに何も言わなかったが、唯一繰り返し言っていたのは長い髪が好きだ、ということだった。

付き合い始めは伸ばしかけだった髪を肩をずっと越すまで伸ばしてからは、長いままキープしていた。毎日お風呂上がりに乾かすのにかかる膨大な時間も、みるみる減っていくあらゆるヘアケア用品も、何も苦じゃなかった。パーマをかけて作った胸にかかるほどのゆるふわカールは、すっかり私のものになっていた。

大学を卒業して、社会人になって、遠距離恋愛になって、気付けば付き合い始めてから6年が過ぎていた。交際は順調すぎて、遠距離から帰ってきた彼と当然のように同棲を始めた。

私も彼も同い年の27歳、結婚の話はよく上がるし、プロポーズは秒読みに違いなかった。結婚式は長い髪がいいから、今は切っちゃ駄目だと決めて、もっと丁寧にヘアケアに勤しんだ。どれも、これも、私が勝手に決めていたことだけれど。

◎          ◎

ありふれた同棲生活だったが、大好きな彼が毎日のように隣にいるだけで嬉しかった。嬉しかったのは、私だけだった。同棲して3ヶ月経った初夏のなんでもない日、彼は会社に行くのと同じように行ってきますと言って、帰ってこなかった。 

何かあったわけじゃない。呆気なく、別れを告げられた。じたばたともがくように言葉を重ねても、その事実が変わることはなかった。めちゃくちゃになったライフプランを抱えて夜ごと涙を流した。髪を乾かしたかも定かではない。二人分の家に住み続けられるはずもなく、呆然としたまま手続きをして新しい家に引っ越した。

失恋したら髪を切る、なんてよく言うけれど、そんなの本当だろうか。未練だらけの私は、少しでも彼が好きだった頃の私を取っておこうとしていた。もし、もしも街で彼とすれ違ったら、短い髪じゃ振り返ってもらえないと思って。

◎          ◎

気づけば冬になっていた。来週はちょっと忙しくなるから、今週のうちに髪を切ろうと思った。いつもは毛先を整えるだけだった。でも、短くしたい。なぜだか急にそう思った。

引っ越して半年経ってもまだ行きつけの美容室は見つかっていなくて、急いで退勤して見知らぬ美容室に駆け込んだ。平日の夜、初めて会う美容師さんは、思い切り髪を切りたいと伝えると、少し驚いたふうに笑ってくれた。

どんなふうにしたいかと相談しているうちに、ただ短くしたいと思っていただけのはずなのに、なりたい私が輪郭を持ちはじめた。ショートカット、前髪はこんなふう、こんなイメージで。

床はみるみるうちに髪で埋め尽くされた。美容師さんが髪を整えてくれるたびに、誰かに向き合ってもらえる自信が少しずつ重なっていく。最後のブローが終わって鏡に映った短い髪型はすごく素敵に見えて、ありがとうございますと笑顔がこぼれた。

◎          ◎

切った次の日は平日のど真ん中だったから、すぐに同期に驚かれた。上司は繁忙期の前だから気合いを入れて来たのかと笑っていた。しばらくは人に会うたび声をかけられて嬉しかった。8年ぶりのショートカットは驚くほどに私に馴染んだ。

失恋したら髪を切るのに、私は半年と少しかかってしまった。長かったのか短かったのかわからない。でも今の私なら、万が一、彼と街ですれ違っても。彼の好みに合わないショートカットだなんて思わない。まっすぐ胸を張って言える。これが、なりたかった私だ。その強さは少し辛くもあったけれど。髪型を変えたら、ほんの少し自分が好きになれた。